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がんもどき

株式会社インターネットイニシアティブ 代表取締役会長 鈴木幸一

 

 IIJを創業し、すぐに一年半に及ぶ行政との長い議論が続き、やっとサービスを開始できるようになったのは1994年の春である。その年の暮、一切の新聞購読をやめた。以来、新聞を購読していない。新聞を読まないわけではなく、コンテンツが電子化されるようになると、毎日、ネットで読むようになった。紙媒体だけでなく、新聞が電子化されるようになって10年以上も経つ。

 1990年代が終わる頃、代表的な新聞社である6社の経営者と2回ほど、紙媒体による新聞コンテンツは、遠からず事業とはならなくなると、長時間にわたって議論する機会を与えられたのだが、結局、納得してもらえなかった。紙媒体によって得られる広告収入が電子媒体によって代替可能なのかについては、新聞という媒体が始まって以来のことなのだから、早急に答えを見出せるはずもないが、そのことを追求しない限り、長いあいだ紙媒体の新聞社が持っていた広告収入事業も、新たに参入してくるであろう電子メディアの事業者に奪われるはずである。

 巨大な技術革新は、全ての仕組みを変える。その時、長い歴史を持った事業者ほど、大きな仕組みの変化を拒否し、その結果、新しい事業者に代替されることになる。いまから20歳以上も若かった私の口調、もの言いがキツイというか、厳しすぎたらしく、2回ほどでその会合は終わってしまった。当時、米国のナスダック市場に上場したばかりで、気が張っていただけでなく、米国と比較して、日本企業のトップは、あらゆる業種で社会の仕組みを変えるインターネットの破壊力について、理解しようとしないというか、高を括っていた。

 その時代、つまり1990年代は、私が日本にいるのは一年の3分の1程度だったが、昔風の日本人気質で「それなら、IIJも本社を米国に移そう」といった発想はなく、日本企業として世界で戦えるインターネット企業にしたいという思いが強かったのである。

 1995年、AIH(アジア・インターネット・ホールディング)という企業を設立し、アジアのインターネットのハブを構築しようと、アジア諸国から出資を仰いだのだが、IIJと同じ比率で出資していたシンガポール政府系の出資者が、AIHがアジアのハブになるのは如何なものかと、出資比率の変更、つまりシンガポールを最大の比率にすべきだと言い出した。そして数年後には、アジア6カ国の出資をIIJが買い取ることになり、アジア諸国によるインターネットのハブ会社構想は失敗に終わった。

 IIJは、1992年12月3日、正式に設立された企業で、1994年の春、特別第二種電気通信事業者として登録され、「時間と空間」の概念を変える革新的な通信サービスであるインターネットの商用化を始めたのである。今年の12月3日から30年目が始まる。

 新年の冒頭、新型コロナウイルスのもと、在宅勤務が一般化し、ネットの向こうで仕事をしている社員に向かって、30周年のことなどを話したのだが、社員の顔を見ながら話したかった中身にはわずかばかり触れただけで、30年の歴史を振り返ってみる時の熱い思いを語ることはできなかった。

 私は人から遅れて、突然、早稲田の文学部に入学したのだが、その年の正月、炬燵に寝そべりながら西脇順三郎の詩集を読んだことで決めたのだ。「エリオットはそばやがんもどきの味を知らなかったから哀愁の度合いが足りない」と。「存在自身の哀しさ」こそ、詩の本質なのだと。長く生きて、過去を振り返ると、失敗ばかり、忸怩たる思いがするのだが。


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