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ゼロからの出発

株式会社インターネットイニシアティブ 代表取締役会長 鈴木幸一

 

 IIJは、12月3日に創業25周年を迎えた。25年といえば、四半世紀になる。言われてみれば長い時間なのだが、あっという間に過ぎてしまった気がする。インターネットは20世紀最後の大きな技術革新であり、21世紀の産業のエンジンとなっている技術革新でもある。その渦中にまみれて、いまだにこの技術が世界のあらゆる仕組みを変えていく可能性の広がりを俯瞰できないからだろうか、25年の過去が一枚の紙に集約されてしまうような思いが強い。
 25年を経て、ようやく助走が終わり、これからインターネットという技術が怖いほどの変化をもたらすものであるという確信だけが残っている。IIJの辿ってきた25年も、将来への準備段階に過ぎなかったという感慨である。失敗や挫折の苦い思い出だけは鮮明に焼きついたままだが、それもこの技術革新が将来にもたらすであろう、あらゆる巨大な変化を考えると、小さなことだったのかもしれないと。IIJを始めて、いつも頭を離れないのは、湘南海岸から地球の海全体を眺めているようなものだという思いである。

 日が暮れて 鐘がなり
 月日は流れ 私は残る

 むかしを振り返ると、ふと、有名な「ミラボー橋」の詩句が浮かんだりして、いい年をして恥ずかしくなるのだが、過去の記憶を振り返ると、なんとなく優しい感傷というオブラートに包まれてしまう。個人のことならともかく、会社や事業の過去の経緯を振り返りながら、ついつい感傷という逃げ道に触れてしまうのが嫌なのである。
 IIJを創業して15年とか20年の節目を迎えるたびに「そろそろ社史は大げさだけど、忘れないうちに創業以来のことなどをまとめましょう」と、一緒に苦労をしてきた仲間に言われたのだが、その都度「振り返るより、先のことを考えている方がいい」と、私にはめずらしく、断固、拒否してきたのである。過去のことを当事者が振り返ると、他者が書くよりも歪んでしまう気がするのだ。たぶん、ほんとうは感傷という柔らかなお化粧に、すぐに堕してしまう自分を知っているからだろう。

 すべてがゼロ――IIJの始まりは、ほかに表現の仕様がない状況だった。「この会社、永田町の解体ビルで、いつまで籠城が続くのだろう。まだ夜逃げをしていない。結局、インターネットの接続サービスを始めることができないまま、ビルより先に解体するに違いない」。外からの言葉は、そんなものだった。
 限りなくゼロに近い資本金で始めたIIJは、最少の敷金、わずかな賃料ですむ、解体の時期が決まっていたビルを、私の友人から紹介してもらった。そこにオフィスを構えたのが、1992年12月3日だった。自動車のショールームだったという解体予定のビルの一階が、IIJの始まりである。
 高い天井の寒々しいオフィスに集まった数人のエンジニアが、広い空間に秩序なく椅子と机を置いて、思い思いに仕事を始めたのである。始めたといっても、些少な資金しかなく、役所の認可も取れていないわけで、いつ始まるとも予測がつかないまま、いつかは始められるはずのインターネット接続の商用化サービスに備えて、さまざまな準備をしておくというのが、その仕事だった。
 解体が決まってからの入居だったので、もともと歯抜けのようなビルだったが、遅ればせに移転するテナントさんが次々にビルを出て行った。引越しをするテナントさんが、ウィンドウ越しに見えるIIJの不思議な空間の惨状を察してくれるのか、事務机から、社長室にあったであろうソファに至るまで、「もしお使いいただけるのでしたら」と、持ち込んでくれた。空間はいくらでもあった。一人ひとり、高さも広さも異なる事務机をもらった。その空間にはまったく不似合いなソファや机が持ち込まれ、そこに座ってみたりした。座った当人である私も、思わず噴き出してしまったほど豪華な机や椅子もあった。それでも座り心地がよくて、先行きの見通しが立たないままその椅子に座り、頬杖をついて、ガランとした空間を眺めていた記憶がある。
 時間が経つにつれ、見通しゼロのようなオフィスにインターネットに関わりたいという若い技術者が集まってきて、人の数だけ、まちまちな事務机が並び始めた。並ぶといっても、レイアウトが必要ないほどの広い空間なのだから、好きな場所に机を置き、そこが技術者たちの席となった。どこでも勝手な場所に置いてよかったのだが、傍に寄り合って机の場所を決めるようで、かたまりになったいくつかの席と、ガランとした大きな空間ができてしまった。
 サーバをはじめ、インターネットのサービスを始めるための機器や設備が運び込まれるたびに、なんとなくオフィスらしい風情になってきたのだが、オフィスというよりは、倒産寸前の町工場といったほうが適切だった。高い天井が災いして、 移転するテナントさんからブラインドのおこぼれにあずかることはできなかった。サイズが合わないのである。永田町の中心にあるビルなのに、強烈な西日が当たるので、仕方なしにコンピュータ類に黒いコウモリ傘をかけて日除けにしたものだから、その空間の光景は、ますます不気味で異様なものとなっていった。黒い傘がコンピュータの上に開いているオフィスを見て、歩道を歩く人はお化け屋敷のような印象を持ったらしい。「この会社、なんだろう?」と、いぶかるのが当たり前で、会社と認めてくれたビジネスマンやOLは、まずいなかったのではないだろうか。

 金策と役所の認可に明け暮れていた私の頭は、日々「徒労」という言葉がなじむようになってきた。半年が過ぎ、一年以上経っても、いっこうに状況が変わらず、私の資金も毎月減り続け、個人の通帳も限りなくゼロに近くなった。底がみえてくると、かえって依怙地になるのか、夜、社員と安酒を飲み始めると、だんだん話が大きくなっていった。毎月、月末にわずかな給与を茶封筒に入れて渡されるだけで、それも月を追うごとに中身が少なくなっていく社員は、一年を過ぎても状況が変わらないどころか、将来がないのではないかという不安がますます膨らんでいっただろう。行き場のない状況を知っているだけに、社員は「鈴木さんは元気そうだけど、ほんとうのところは、ダメなんじゃないか」という会話をするようになった。それでも夜になると、技術者を誘い、ビルの近くで安酒を飲みながらインターネットの将来を話し始めると、その場は活発な議論となった。足元の状況や見通しなど、切迫している事態が話題にのぼることはなかった。なによりもアメリカでは、インターネットの爆発的普及が予兆から現実のものになり始めていたのである。いくらでも話すことはあった。私もいい加減なもので、IIJは情報通信のインフラをつくり変えることができる日本でたった一つの企業だ。いずれNTTに代わって、IIJが主導権を握る時代がくる。10年も経てば、電話は要らなくなるのだ。電話に置き換わる技術をもって、事業をつくろうというのだから苦労するのは当たり前で、給与なんか些細なことだ。いずれは認可されるのだから……そんな話をしていた。
 将来がまったく見えないときは、大きな思いや将来への確信を話したほうがよかったのかもしれない。アルコールが入って元気になると、若い技術者たちの話は尽きなくなる。会話が盛り上がり、夜通しインターネットの話だけを続ける。「駒忠」から「養老乃瀧」という居酒屋の梯子は、40歳も半ばにさしかかった私の身体にはこたえたが、技術者を奮い立たせるには、アルコールの助けが必要だったことは間違いない。

 そんな状態で一年半が過ぎ、「自己破産」という言葉が頭に浮かび始めた頃、ようやく役所から認可が下りて、ふた月を待たず、商用のインターネット接続サービスを始めることができた。営業の人間が一人、二人と入社してくれて、事業は一気に膨らんだ。サービスが始まると同時に、全国展開、海外との折衝など、私の日常は国内外への出張が続くようになり、オフィスに顔を出すのは月に一週間ほどになった。欧米に対抗してアジアのインターネットバックボーン網をつくったAIH(アジア・インターネットホールディング)社の設立、ニューヨーク・ナスダック市場への上場など、寸暇を惜しむように疾走を続けた。
 シリアスな経験もした。レイヤー2に焦点を当てたCWC(クロスウェイブコミュニケーションズ)社の設立から挫折、破綻……苦い経験は重荷を残した。2003年がその年だった。苦境に陥ったときも、IIJを辞める社員はいなかった。IIJにとっては二回目の創業に近かったのだが、状況が違っていたのは、設立当初に予想し、「大法螺」と言われた1000万人単位のインターネット利用者の存在と、企業にとってもインターネットがビジネスのライフラインになっていたことだった。しかも日本のインターネットのサービスに関するほとんどのプロトタイプは、IIJが開発したものだった。創業10周年を迎えたのは、そんな頃だった。定款にある社名のとおり、技術的な「イニシアティブ」をとり続けようとすることで、苦境を乗り切れるだけの社員が育っていたのである。
 過去に触れないつもりが、25年の歴史が記憶から溢れてしまったようだ。社名については、笑い話のような思い出がある。定款にある社名は、いまだに「インターネットイニシアティブ」である。ところが、米国のネットの知人から「世界のイニシアティブというのはいくらなんでもなあ」――そんな言葉が出たので、最後に「ジャパン」を付けたら「IIJ」となって語呂がよく、正式社名はインターネットイニシアティブのままで、略称をIIJにしたのである。今でも海外の人は「インターネットイニシアティブジャパン」と言う。助走が終わって次のステップに進むITの世界にあって、「ジャパン」なしで、胸を張れる企業になることが、次の目標である。


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