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コラム|Column

模倣ではあるがスピーディー

誤解してほしくはない。この記事は中国を悪く言うつもりはない、と前置きしておく。

ノーベル賞の季節になると、毎年のように「なぜ中国人はノーベル賞がとれないのか」という話題が湧いてくる(ひょっとしたら数年後には昔話になっているかもしれない)。そして結論は「中国の教育が悪い」というなんとももやっとした結論となる。また企業においても、独自のサービスは少なく、ネット業界においても、シリコンバレーのサービスの模倣サービス、中国の名だたる大企業が中国のベンチャー企業のサービスを模倣したサービスを出し、それを見たネットユーザーはSNSで嘆きのコメントを書きこむ。やはり「中国の教育が悪い」という結論に落ち着く。

WEBメディアの記事に興味を持って、他の分析記事を読もうと検索しても、一言一句同じ記事ばかり、という経験をしたこともあるだろう。百度版のWikipedia「百度百科」でユーザーに書き込まれた記事すらも、他の記事からの丸写しで、特定の単語に対する説明になっていないことが多い。中国では「あるある」のこうした模倣は、もしあなたが中国でソフトウェアを開発するとなれば頭を悩ませる事になる。WEBサイトを依頼すれば他のサイトを少しいじっただけのものを提出し、大企業向けのプログラムをアウトソーシングすれば、ソースコード丸写しになることは多く、コンプライアンス的に問題となりよろしくない。

また中国の模倣は、よくいえばスピーディーである。「こういうときに正しいエラーを出力するか」というチェックリストが少ないからこそモノを模倣するに迅速で、品質は悪いが、最初に出すだけ出して、儲かりそうなら後から改善していくというスタンス。また中国の製品は雑である。雑という曖昧な言葉を、筆者が購入した製品や利用したサービスを思い出して別の言葉で言い換えるなら「自分よがり」である。他の人に読ませるための説明書や仕様書は、書いた本人しかわからないような内容だ。

中国の教育現場では

こうしたモノづくりをなぜ行ってしまうのか、それは社会環境も含めた教育がそうしていると考えている。例えば中国では横断歩道をわたらない人は目立つが、「赤信号でも構わず渡れ」とは中国の学校や幼稚園では教えない。学校や幼稚園でNGだと教えているにもかかわらず、大人が「それは建前事だ」とばかりに子供に社会実践を行わせる。

中国の小学校は厳しい

中国の小学校の実情を紹介しよう。以下に書いた実情は、筆者の住んでいる地域をリサーチしたものだが、中国の全く異なる地域に通わせている親御さんに聞いても、ほぼ同じ状況と聞くので、中国全土的な現象だといえる。

中国の学校は日本の学校に比べて厳しい。小学校中学年以上は同じ6時間授業ではあるが、各教科で先生は異なるため各教師で専門性がある(逆に日本の教師はオルガンが弾けて体操もできて全教科できるので、中国人は「超人か」と大変驚く)。宿題の量は多く、やってこない生徒を教師はどなりつける。テストも点数が低いと鬼の形相で怒る。教師は怖い存在であるからこそ、誰もが真面目に宿題をやってくる。集中を強いられ、尻を叩かれながら、子供はテスト勉強を日々集中して行い、高得点を叩き出す。

小学校の子供たち

小学校の前で子供を迎えるために待つ大人たち

日本では30年前も今も、学校と家庭との伝達は「プリント」だ。だが中国では、スマートフォンが普及した今、ある程度所得が高い人々が集まる学校での伝達手段は「微信(WeChat)」である。各生徒の両親と各教科の教師がクラスのグループに登録して、先生は今日の宿題から学校の教育風景の1ショット写真まで伝え、親は不明点があればグループに質問を投げる。様々な投稿が投げられるため、時々見ないとタイムラインの後ろに重要伝達事項が流れてしまう。そのため子持ちの仕事人は、仕事中といえど、頻繁にスマートフォンを触ってはタイムラインをチェックしなければならない。

教師は老人とならんで中国では尊敬すべき存在ではある。だが、その立場にあぐらをかいて、授業中に伝達事項チェックをするようにみせて、スマートフォンで微信(WeChat)や微博(Weibo)などのSNSや、天猫(Tmall)や淘宝網(Taobao)などのECサイトをチェックする教師も。子供はそれをみて、立場が上の偉い人は何をやってもいい、と解釈しがちだ。普通にキャリアアップのために生徒放置して転職する教師もいるが、教師は尊敬すべき存在だから「さようなら先生、子供は号泣しています」という、演技じみたメッセージが、学校の微信のタイムラインに複数の親により次々と投下される。

日常茶飯事の「突然の無理難題」

日本と異なる点では、必要な持ち物についての連絡は突然伝わる。前日の夜に「写真にあるような24色の絵の具を用意しろ」か、2,3日前に「運動会がある」ということが伝わる。日本と比べれば無計画に思えるが、見方を変えれば、突然のオーダーを前提としてスピーディーに対応する力が備わる。また宿題でも、持ち物同様に、無理難題が要求されることは頻繁にある。たとえば、絵日記のような紙一枚に文章と絵をいれた「手抄報」なるものは、昔からの定番の宿題であり、また突然翌日提出の手抄報の宿題はやってくる。

百度で「走進小学」で検索すると小学校の様子が見える

手抄報。やはり百度などで確認できる

パソコン教室はもはや珍しくない

パソコンの授業はもはや普通にあり、マウスの使い方やタイピングを覚え、簡単な文章を書く程度だが、突然手抄報のパソコン版の宿題を言い渡される。つまりWikipediaのような、例えば北京などの土地や、プラキオサウルスなどの動物について、写真付きの記事を作れというオーダーをしてくる。文章を順序立てて考え、文章をめいっぱい入力し、写真を探し貼り付ける、こんな作業は当然できるわけもないが、こんな無理難題もできないとこっぴどく叱られる。そこで親に頼み、親も知識がないため、他サイトから丸々コピーしてくる。宿題は、努力する過程が大事なのではなく、どんなインチキをしてもいいから、他人を使ってでも宿題を提出することこそが第一で、模倣の有無は指摘も注意もされず、パソコン能力が達者な親や大人の協力を如何に得られるかが大切となる。

中国式と日本式、どちらがよいのか?

社会人になって急なオーダーに対して迅速にソースをコピーしてでも納品をするようになるというのも自然な流れだ。国と国との関係を国際関係というが、人と人との関係こと「人際関係」の構築を中国の社会人は重視していることも理解できよう。大人になって偉くなると、ここぞとばかり権利ばかりを振り回すダメな大人になるのもさもありなん。実に中国人的な道徳を、中国人が無意識のうちに、叩き込んでいるのである。

筆者は日本人なので、たとえブログでも百科事典サイトでも、どうしても自分で考えた文章で書き、丸々コピーを嫌がる。読めればいいではないか、という中国人の意見もごもっとも。たしかに日本人手法では意地・こだわりを見せた反面タイムロスとなる。少なくとも中国ではコピーしていいというローカルルールがある以上、コンプライアンスさえ許せば、それを拒む理由は、日本人の意地やメンツしかないし、工数と得られる報酬にはどれだけ影響するだろう。中国式コピーを全面的に受け入れる必要はないが、日本式に固辞する理由もない。中国ではそういうバックグラウンドがあることを理解していただければ幸いである。

山谷 剛史

1976年東京都生まれ。中国アジアITジャーナリスト。
現地の情報を生々しく、日本人に読みやすくわかりやすくをモットーとし、中国やインドなどアジア諸国のIT事情をルポする。2002年より中国雲南省昆明を拠点とし、現地一般市民の状況を解説するIT記事や経済記事やトレンド記事を執筆講演。日本だけでなく中国の媒体でも多数記事を連載。