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コラム|Column

希少性や市場制約への意識の欠如

こうした状況は、農業や水産業にも当てはまります。とくに農業では、緑の革命を通じて食糧増産が果たされる一方で、農民は政府の指導に従って高収量品種を植え、化学肥料や農薬を多投しました。病虫害が出たり、土地の肥沃度が落ちたりして生産性が下がると、さらに化学肥料や農薬へ依存する傾向が続きました(有機農業への関心が高まり始めたのはつい最近です)。水産業でも、漁獲量が減ると爆弾や薬品による乱獲や新漁場への移動が主となり、養殖など「育てる漁業」への関心は低いまま現在に至っています。

熱帯に属し、食用資源が豊かなインドネシアでは、飢餓と向き合うような貧困が問題になることはありません。ジャワ島での主食はコメですが、それ以外では、トウモロコシ、キャッサバ、イモ、サゴ椰子など、コメ以外を主食とする人々が昔は多かったのです。ところが、緑の革命以後、コメを食べることが近代的であるというイメージが一般化し、主食に占めるコメの比率は1950年代の50%前後から現在では9割以上に跳ね上がり、インドネシアの農業政策はコメ中心となりました。

農業や水産業でも、増産だけでなく、加工度を高めて生産性や付加価値を上げることが重要課題なのですが、十分な効果は上がらず、逆に中国などからの輸入品の増加を招いています。かつて自給を達成するほどだったニンニクや大豆などの主要農産品はもとより、オレンジなど熱帯産果物でも、この10数年で輸入依存度が大きく上昇しました。

日本の経験から考えると、年1回しか収穫できない希少性や市場制約があるからこそ、付加価値向上へ懸命に取り組む真剣さがあり、それがモノづくりの根本にあるように思えます。豊かなインドネシアではそうした希少性や市場制約への意識が乏しく、それが経済の質的向上を妨げているのです。

工業化への日本の役割と技術移転の困難

豊かな資源に胡座をかいたインドネシアですが、多少製造業が根づいたとすれば、そこには日本企業の貢献があったというと自賛しすぎでしょうか。

二輪車、自動車、家電製品、その他製造業など、日本からインドネシアへの投資のほとんどは製造業でした。1970年代から1980年代半ばまでは主にインドネシア国内市場向けに生産し、通貨ルピアの切り下げが頻発した1980年代半ば以降は、インドネシアを輸出向け生産基地と位置づける傾向がありました。当時は、日本以外の外資や国内企業が製造業で大きく台頭する様子はなく、「日本はインドネシア経済を支配するのか」と揶揄されることも度々でした。

進出した日本企業は、日本の技術を生かしつつ、インドネシア市場の実情に即した製品開発を行いました。例えば、表示積載量の5倍でも耐えられるトラック、1回使い切りの小口化商品で農村へ販売網を広げた調味料や菓子や石鹸、スピーカーを大きくしたラジカセなど、工夫を凝らした製品が作られました。

また経済協力を通じて、様々な技術移転にも取り組みました。モノづくり人材を育てるために、日本への研修生派遣のほか、金型工業会の設立や技術指導も行いました。1960年代の東ジャワ州におけるブランタス川流域電源開発事業では、日本人技術者が多数のインドネシア人技術者を育てましたが、そこで培われた「ブランタス精神」は、今もインドネシアの公共事業人材育成の礎となっています。

しかし、残念なことに、日本が伝えた技術を伝授されたカウンターパートは、必ずしもそれを他へ広く伝えない傾向が見られました。今でも、 教えた途端にジョブホッピングする従業員は、日系企業の大きな悩みです。

他方、技術進歩の速度が加速化するにつれて、インドネシア側で技術習得の時間が十分に取れなくなり、新技術情報に追いつくだけで精一杯な状況になってもいます。経済発展を急ぎたいインドネシアは、それでも技術移転を求め続けるため、結局、消化不良のまま突き進むことになってしまいます。

モノづくりは見果てぬ夢か

インドネシアは今、タイに続く二輪車・自動車のアジアでの生産センターを目指しています。労賃・物価上昇で、20年前まで輸出を牽引した靴、衣料品、家具などの労働集約型産業は国際競争力を失い、それらに代わる新たな輸出産業として、二輪車・自動車の輸出増が期待されています。

しかし、インドネシア国内での販売シェアの9割以上を日本が占める現状で、二輪車・自動車産業の振興は日本のみを利すると見なされ、中国や韓国との関係で、特別扱いをためらう空気がインドネシア政府内にあります。

ジョコウィ政権は、未加工鉱石の輸出禁止・製錬所建設義務化、精油所建設、農産品輸入規制など、資源の切り売りから付加価値上昇へ動き始めたとみられますが、一方で、モノづくりへの意識はまだ低いように見えます。そして、地場企業優先の立場から、外国投資を呼びかけるにもかかわらず、進出した外資系企業には制限をかけようとする姿勢さえうかがえます。

森林火災、珊瑚礁破壊、都市公害など環境問題が深刻化するなかで、豊かなインドネシアでも資源の希少性や市場制約が意識され始めています。一方で、2015年末のASEAN経済共同体誕生を前に、輸入依存低下、国内産業の競争力強化も大きな課題です。多少時間はかかっても、モノづくりを通じた工業化こそがこれらの解決策になりうるはずなのですが、ジョコウィ政権の動きからその本気度をうかがうことは、まだ難しいようです。

松井 和久 氏

松井グローカル 代表

1962年生まれ。一橋大学 社会学部卒業、インドネシア大学大学院修士課程修了(経済学)。1985年~2008年までアジア経済研究所(現ジェトロ・アジア経済研究所)にてインドネシア地域研究を担当。その前後、JICA長期専門家(地域開発政策アドバイザー)やJETRO専門家(インドネシア商工会議所アドバイザー)としてインドネシアで勤務。2012年7月からJACビジネスセンターのシニアアドバイザー、2013年9月から同シニアアソシエイト。2013年4月からは、スラバヤを拠点に、中小企業庁の中小企業海外展開現地支援プラットフォームコーディネーター(インドネシア)も務めた。2015年4月以降は日本に拠点を移し、インドネシアとの間を行き来しながら活動中。