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コラム|Column

自分の意見を自由に言える。人々が集まって自由に集会を開ける。悪いことをしたら高級官僚でも罰せられる。これらは、民主的な国家ではごくごく当たり前のことです。でも、インドネシアは独立以降、こうした自由が普通になるのに50年以上の時間を費やしました。今回は、インドネシアが強権国家から民主国家へ移行していく道程を振り返ってみましょう。

「王」を待望する土壌

「多様性のなかの統一」を地でいくインドネシアを一国としてまとめていくには、強いカリスマ的指導者が力で治めるしかない。そんなふうにずっと思われてきたし、今もそう思う人が少なくありません。実際、共和国でありながら、人々の間では、あたかも大統領に「王」のイメージをかぶせるような見方は意外に多いと感じます。

それは、今インドネシアと称されるこの領域には、オランダ植民地統治前から大小の王国が存在し、王が国を統治する形態が一般的だったためかもしれません。今でも、国を表す「ヌガラ」という言葉が村・集落を指す言葉として残っているところがあり、村長があたかも王のように振る舞う場合もあります。 地方首長・政府高官には、その場所にかつて存在した王家の末裔として崇められる者や、その真偽は別として、あえてそう名乗って権力の階段を上ろうとする者がいます。

インドネシアには、こうした「王」を待望する土壌が根強くあります。この厚い土壌の上に民主化が薄く乗っているのが今の民主国家インドネシアと言ってもよいでしょう。民主化の育つプロセスが必要となります。

スカルノとスハルト、冷戦の影響

初代スカルノ大統領は、「建国の父」として今も国民からの尊敬を集めています。また、インドのネルー首相やユーゴスラビアのチトー大統領らと並ぶ第三世界・非同盟諸国運動のリーダーとみなされました。

二代目のスハルト大統領は「開発の父」と呼ばれ、莫大な石油収入を使ったインフラ整備や、緑の革命による食糧自給など、その後のインドネシアの開発基盤を築き上げました。

その一方で、スカルノもスハルトも自らに権力を集中し、あたかも「王」であるかのように振る舞って、強権的な政治を行いました。対抗勢力は潰され、政治活動は厳しく制限され、人々は公の場で政府批判と取られないよう発言に細心の注意を払いました。生きていくためには、お上に忠誠を誓っているように見せなければならなかったのです。

スカルノやスハルトが強権的だった背景には、インドネシアがまだ国家として未成熟だったということ以外に、当時の冷戦が強く影響しました。

第三世界・非同盟諸国運動に熱心だったスカルノ大統領の時代には、インドネシア共産党がジャワ島を中心に勢力を伸ばしました。アメリカなどの資本主義陣営は、資源の豊富なインドネシアの共産主義化を防ぐため、軍にテコ入れし、共産党と軍の対立が高まりました。

そして、インドネシアでの歴史教育では共産党によるクーデター未遂事件とされる1965年9月30日事件が勃発、これを抑えた軍が主導権を握り、スカルノからスハルトへ大統領が交代します。スハルトは反共主義を鮮明にして、多数の共産党関係者・協力者を摘発・処罰しました。

このときから「共産主義は極悪」というイメージが国民に刷り込まれ、半世紀経った今でもそれは基本的に変わっていません(最近日本で公開された映画『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』で今に至る難しい状況が取り上げられています)。

反共のスハルト強権政治の下で、石油ガス開発などに欧米資本が参入し、また日本を中心とした製造業投資が行われ、インドネシアは空前の経済成長を経験しました。反面、政権へ歯向かう者には共産主義者のレッテルが貼られて迫害され、たとえば、ある日突然ブルドーザーが来て住居をなぎ倒すといった土地の強制収用さえ起こり、人権侵害が頻発しました。

松井 和久 氏

松井グローカル 代表

1962年生まれ。一橋大学 社会学部卒業、インドネシア大学大学院修士課程修了(経済学)。1985年~2008年までアジア経済研究所(現ジェトロ・アジア経済研究所)にてインドネシア地域研究を担当。その前後、JICA長期専門家(地域開発政策アドバイザー)やJETRO専門家(インドネシア商工会議所アドバイザー)としてインドネシアで勤務。2012年7月からJACビジネスセンターのシニアアドバイザー、2013年9月から同シニアアソシエイト。2013年4月からは、スラバヤを拠点に、中小企業庁の中小企業海外展開現地支援プラットフォームコーディネーター(インドネシア)も務めた。2015年4月以降は日本に拠点を移し、インドネシアとの間を行き来しながら活動中。