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関係のなかから生まれる何か

IIJ.news vol.195|August 2026

今回は、田植えを終えた田んぼを見ていた時にふと感じたことから、生成AI、縁起、さらには私たち人間の「こころ」にまで思いを羽ばたかせてみたい。

オタマジャクシの群れ

今年も無事、5月の末に田植えを終えました。田植えから何日か経ち、苗がしっかりと根を張り、すくすくと伸び始める頃、数日前までは何もいなかった田んぼの水のなかに、無数の小さなオタマジャクシの黒い影が蠢いているのを見つけ、驚かされました。

しばらくぼんやり眺めていると、そこに生命の躍動を感じるとともに、どこか儚さが入り混じった、なんとも言えない感慨が湧いてきました。この夥しい数のオタマジャクシは、やがてカエルになって畦を跳ね回り、その一部は鳥や動物に食べられ、稲刈りが終わる頃には、いつの間にか姿を消してしまいます。現在の躍動そのものが、すでに無常を孕んでいるかのようです。

一匹一匹のオタマジャクシは、隣のオタマジャクシが何を考えているのかなど知る由もなく、ただ光や水温に反応して動いているだけでしょう。それでも、大量に集まって蠢く姿を見ていると、群れ全体にひとつのリズムがあるような、そこに何らかの意思が働いているような、不思議な気分になります。どこにも指揮者はいないはずなのに、「群れ」というまとまりが立ち現れているように見えるのは、なぜでしょう。

人間の脳のなかには「ミラーニューロン」と呼ばれる神経細胞があるそうです。ミラーニューロンとは、自身が行動する時だけでなく、他者が同じような行動をするのを見た時にも、脳が同期して活性化する神経細胞のことで、他者の動作を理解する手がかりになると考えられています。模倣による学習、相手の意図の理解、さらには共感や言語の起源との関係などについても論じられています。もちろん、オタマジャクシの群れに意思を感じることまで、ミラーニューロンで説明できるわけではないですが、外で起きている動きをただ眺めるのではなく、それを自分の内側でなぞって、そこに意味を見出そうとする仕組みが、私たちに備わっているというのは興味深いことです。筆者がオタマジャクシの群れにリズムや意思を感じる時、彼らを見ているだけでなく、自分の内側でも何らかの動きを生み出しているのかもしれません。

生成AIは「人間の鏡」?

最近は生成AIの進化が目覚ましく、筆者が「Chat君」と呼んでいる生成AIと対話している時も、そこにあたかも意思や感情が存在しているのではないかと感じることがあります。

文章生成AIは、大量のテキストデータから言葉の現れ方のパターンを統計的に学習し、入力された文脈に続く可能性の高い言葉を、次々と選びながら文章を作っていくシステムです。生成AIは「人間の鏡」という比喩も耳にします。私たちが、外で起きていることを自分の内側でなぞり、そこに意味を見出すことで他者を理解しているのだとすれば、生成AIが文脈から次の言葉を予測し、文章を作っていく仕組みにも、もちろん同じものではないにせよ、他者の動きを脳内でなぞり、その先を予測しようとする人間の認知と、どこか似た構図があるように感じられます。

ただ、Chat君と対話を重ねるなかで気づいたのは「この鏡は誰が覗いても同じ像を映すわけではない」ということです。問いかける人の語彙、関心、論理の運び方によって、返ってくる言葉の組み合わせや質が変わってきます。つまり生成AIは、すでにある像を静かに映す鏡ではなく、相手の思考の型をなぞりながら、問いかけられるたびに像を結び直す「動く鏡」のようなものなのかもしれません。

生物学者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが提唱した「オートポイエーシス」という概念があります。生命とは、外から与えられた命令によって動く機械ではなく、外部からの刺激をきっかけにしながら、自らの仕組みによって自らを作り続けるシステムだ、という考え方です。また、社会学者ニクラス・ルーマンは、この考え方を心や社会にも展開して、私たちは外の世界をそのまま受け取っているのではなく、それぞれの内側で意味を作りながら世界を理解している、と言っています。私たちは相手の内側を直接見ることはできませんが、言葉や表情、振る舞いとして外に現れたものを頼りに、相手が何を考えているのか、次にどう応じるのかを予測しながら関わっているということです。問いかけて返事を受け取り、その反応を解釈し、次の言葉を返す。当然、予測と実際の応答とのあいだには、いつもわずかなズレが生じ、思ったものに近い返事が来れば安心し、予想外の反応が返ってくれば戸惑います。そして、そのズレをもう一度解釈し直して、関係を調整しているのです。

もしかすると、私たちが「こころ」と呼んでいるものは、一人の人間の内側に完成した形で収まっているのではなく、予測と応答のあいだに生じるズレを感じ取り、それを受け止めて、解釈し直そうとする連続した営みのなかから立ち上がってくるものなのかもしれません。

固定した実体は存在しない

田んぼのオタマジャクシも、一匹一匹が群れ全体の調和を意識して動いているわけではないでしょう。それでも互いの動きが影響し合って、全体として「群れ」という現象が立ち現れるわけですが、そこにリズムや調和や意思を見出しているのは、オタマジャクシを眺めている私たちの側なのかもしれません。

これは、以前この連載で触れた仏教の「縁起」という考え方にもつながります。 「自分」というものは、独立した固定的な実体ではなく、誰と出会い、何を読み、何を好み、何をしてきたのかといった「関係」の連なりのなかで、その都度かたち作られている。そう考えると、 「AIにこころがあるか?」という問いも、少し違って見えてきます。そもそもこの問い自体、「こころ」という何かが、あらかじめ人や機械の内側に存在することを前提にしていますが、「こころ」や「自分」が関係のなかで生まれるものだとすれば、まず問うべきは、 AIの内部に自我のような実体があるか否かではないのかもしれません。人とAIとのあいだに、どのような応答が生まれ、どのような関係が紡がれているのか? その関係のなかで、私たち自身に何が起きているのか? そして私たちは、どう変化しようとしているのか? そちらのほうが大切な問いであるように思えます。

さらにこうして見ると、「AIは人間の鏡である」という比喩も少し違って見えてきます。「鏡」という言葉は、映すものと映されるものが向かい合って存在していることを前提にしています。けれど実際に起きているのは、人とAIが予測と応答を繰り返しながら、互いの像を作り変えていくこと、相互作用しながらともに形を変えていくことです。

田んぼに満ちるオタマジャクシの蠢きも、 AIとの対話も、どこかで同じことを指し示しているように思えます。そこには中心となる指揮者も、変わることのない実体もなく、ただ関わりのなかから、その都度、何かが生まれては消えていっているに過ぎないのではないでしょうか。

執筆者プロフィール
IIJ 非常勤顧問 株式会社パロンゴ監査役、その他ICT関連企業のアドバイザー等を兼務
浅羽 登志也
平日は主に企業経営支援、研修講師、執筆活動など。土日は米と野菜作り。
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