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社長対談 人となり 三菱重工業株式会社 取締役会長 宮永 俊一氏

IIJ.news Vol.179 December 2023

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。
第27回のゲストには、三菱重工業株式会社取締役会長の宮永俊一氏をお招きしました。

三菱重工業株式会社

取締役会長

宮永 俊一氏

1948年、福岡県八幡市(現・北九州市)出身。72年、東京大学法学部を卒業し、三菱重工業に入社。2006年5月、執行役員機械・鉄構事業本部副事業本部長。08年、常務執行役員機械・鉄構事業本部長。11年、副社長兼社長室長。13年4月、社長。19年4月、会長。15年から日本経済団体連合会副会長(19年まで)。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役社長

勝 栄二郎

テニスに熱中した青春時代

勝:
最初に、幼年期から青年期にかけてのお話をうかがえますか。
宮永:
父は製造業の会社に勤める真面目なサラリーマンでした。母は商家の生まれで、ロマンティックな人でした。私の試験前でも「映画を見に行きましょう」と誘ってくるほどの洋画好きで、ハンサムな男優や『哀愁』のヴィヴィアン・リーがお気に入りでした。
勝:
ご出身は北九州市でしたね?
宮永:
当時はまだ(合併前の)八幡市で、目の前に八幡製鉄所がありました。同級生には九州男児がたくさんいましたが、母から「丁寧な標準語をなるべく話しなさい」と言われていました。ごく普通の家庭でしたが、言葉遣いと礼儀作法には厳しかったです。
勝:
高校は、小倉高校へ進学されました。宮永会長は、非常に優秀な学生だったのではないですか?
宮永:
いえいえ(笑)。高校に入ってから硬式テニスに熱中するようになりましてね。勉強も嫌いではなかったのですが……。
大学でも硬式テニス部に入って、朝から晩までコートにいるような生活をしていました。東大のテニス部も当時はわりと強く、練習も厳しかった。私はそれほどうまくならなかったですが、テニスというスポーツは一生懸命やれば、楽しめる程度のレベルには達することができるのです。逆に、才能に恵まれた人が集中的に取り組むことで到達できる領域があって、自分はどう頑張ってもそこまでは行けない――テニスを通して“技術の限界”を見極められるようになりました。より高いレベルで判断できる力が養われたと思います。
勝:
そういったことに気づくのも才能ですよね。今でもテニスはされていますか?
宮永:
50歳くらいまではやっていましたが、ちょっと無理をして怪我をしてから、家内に止められています(笑)。

辛くも卒業して、三菱重工へ

勝:
三菱重工に入社されたのは、何かキッカケがあったのですか?
宮永:
私は非常にのんびりした性格で、4年生まではテニスをやって、それからもう一度、勉強し直そうと考えていました。だから就職活動はしていませんでした。ところが3年生の終わり頃、高校時代の友人だった今の家内と、ばったり再会しましてね。急に「結婚したい」と思ったのです(笑)。
勝:
へえ、そうだったんですね!
宮永:
行き当たりばったりな人生ですよね(笑)。で、結婚するなら働かないわけにはいかないなと思って、就職先を探し始めたところ“青田買い”の時代ですから、周りの学生はみんな就職先が決まっていました。さらに困ったことに、授業にあまり出ていなかったので、単位がまったく足りなかったのです。
それでテニス部の先輩に相談に行ったら、「三菱重工なら入れてくれるかもしれない」とアドバイスしてくれた。面接に行くと、運良く採用してくれることになりました。ただし「ちゃんと卒業できたらね」と。当然ですよね。
勝:
どうなりましたか?
宮永:
実は、私の年子の妹も同じ大学にいて、彼女が法学部の友人のノートを集めてくれたのです。それで必死に勉強して、なんとか単位を取ることができました。
そんな私を採用してくれた会社には今でも心底感謝していますし、卒業後10年くらいは、単位を落とす悪夢を見て、冷や汗をかいていました(笑)。
勝:
本当に(単位取得が)大変だったんですね。

事業の撤退・再編を経て

勝:
三菱重工に入った同期は、何人くらいいたのですか?
宮永:
大学院卒も含めて、600人くらいでした。
勝:
そんなにたくさんですか!
宮永:
造船業が絶好調でしたからね。
勝:
入社後は、どのような仕事をされたのですか?
宮永:
まず広島の造船所に配属されました。若い頃は、言われたところに行って、言われたことを一生懸命やっていれば、そのうち好きな仕事も見つかるだろう、といったくらいに考えていました。
当初は3カ月に1回、タンカーの進水式があったのが、ドルショックとオイルショックの影響もあって、3年ほどで造船不況に……。広島は造船から撤退し、工場ではいろいろな産業機械をつくっていたのですが、高度成長期を経て日本の重化学工業なども成熟期をむかえつつあったので、そちらの受注も急速に落ち込んでいきました。
入社して4年目くらいから、さまざまな事業で撤退と再編が始まりました。それにともない私は工場の生産管理をやりながら、事業の再編や“後片付け”に関わるようになっていきました。その頃「将来を見据えて、別の分野への事業転換を早めに考えていた人が会社にいれば、こんなに多くの人を巻き込まないで、もっと緩やかな変革ができたのではないか」と、ある種の矛盾も感じていました。もちろん時代の変化とともにいろんなことは起きますが、変化への適応を常に考えていないと、事業や組織はどこかで行き詰まってしまう……と。
そうした最中、ありがたいことに会社から「勉強してきなさい」と言われて、シカゴ大学に留学させてもらいました。米国から帰ってきたあと、従前の仕事を行なう一方、「現場やお客さまに近いところで仕事をしたい」という思いもあったので、35歳での挑戦でしたが、製鉄機械の海外営業部門に移ることになりました。それを機に私の人生が大きく変わりました。

営業職として世界を見る

勝:
新しい仕事で印象に残っているものはありますか?
宮永:
ちょうど韓国の国営製鉄会社POSCOのプロジェクトが始まる時期で、その仕事を担当しました。さらに、改革開放路線が本格化した中国で宝山鋼鉄の第2期プロジェクトにも携わりました。これら2つの大事業と並行して欧米や中東でも仕事をしていたので、世界の動向を見ることができました。
この良い流れのままグローバルに発展していけるかなと思っていた1997年、アジア通貨危機が発生し、世界経済にも停滞が生じました。鉄鋼業界も不況に見舞われ、我々の事業も単独での生き残りが困難になっていきました。ちょうどその時、日立製作所と合弁会社(MHI日立製鉄機械)を立ち上げることになり、私が社長に就任しました。
今、振り返ると、広島での事業の撤退・再編に次いで、アジアや欧米を舞台に良い時代も厳しい時代も経験し、さらに今度は日本の事業が振るわなくなる……若い時期に“山あり谷あり”の貴重な体験をさせてもらいました。
勝:
当時は頻繁に海外出張されていたのですか?
宮永:
出張詰めの月日でした。輸出部門の営業は、短期の出張で複数のお客さまをまわっていきます。日本をはじめ、中国や韓国はコミュニケーションの障壁が少なく、組織の風土も比較的似ていますから、通常、大きなトラブルは起きにくいのですが、米国やヨーロッパでは思いがけない経験をしました。
最初は互いに慎重で警戒心も強いので、大きなトラブルが発生することはまずないのですが、小さな仕事を何度かやったあと、一足飛びに「世界一のプラントをつくる」といった話になると、双方のイメージのあいだにズレが生じやすくなり、ある日突然、とんでもない問題が浮上してくるのです。
例えば、米国のあるプラントに足掛け2年近く関わったことがあります。それまでは比較的小さい仕事をやってうまくいっていたのが、やがて「そんなに大きいのは、ちょっと危ないかも」という規模になり、案の定、大問題になってしまった。
私は3〜4カ月、米国に滞在し、東京に帰って報告して、別の仕事をしてから、また米国に戻るといったスケジュールで動いていました。プラントはすでに稼働していたので、改造や修繕は並行して行なわれます。現地にいる時は、朝の5時に事務所に顔を出し、夜の9時くらいまでいるようにしていました。毎日挨拶して、視察を重ねながら、相手の話を全て聞くといったことを繰り返しているうちに、特に問題が解決するわけではないのですが、向こうも「この人は、とにかくいてくれるんだな」と信頼してくれるようになってきました。
勝:
ギャップが縮まったのですね。
宮永:
最初は、お互いの言い分や主張をぶつけていても、「窮すれば通ずる」は万国共通で、問題がどんなに複雑でも、別の角度から見ることで解決の糸口が見つかったりするのです。
それである程度、時間が経つと、法的に戦うだけでなく、歩み寄ること、本音をさらけ出すことも必要だよねという雰囲気が出てくる。それから、お互いの責任範囲を少しずつ広げて、「なるべく戦わない方法を探りましょう」という方向に持っていくのです。そして、いったん分かり合えると、解決までの道筋が見えてくる。もちろん、どうしようもない時はやはり正式な仲裁に委ねることもありますが。
米国のケースは非常にむずかしかったので、完全に解決するまでにはさらに数年を要しましたが、プラント完成時の式典には招待され、喜び合うまでに関係を回復できました。

南北アメリカ大陸を縦断しながらの折衝

勝:
米国以外の国や地域では、ビジネスの様相も違ってくるのですか?
宮永:
そうですね。実は、米国での仕事の途中、日系企業と組んでブラジルでの大きなプラント建設の内定を取ったのですが、よくよく調べてみると、税制に関する見誤りと言いますか、お客さまと我々の認識のあいだにズレがあることが判ってきた。ブラジルの税制は州ごとに違っていて、非常に複雑なのです。それで「この見積もりではリスクがある」ということをあとから申し出たら、お客さまが怒ってしまって……。結局、内定を辞退するしかないという結論に至ったのですが、いろいろむずかしいことが重なり、話がこじれてしまった。そこで、たまたまそのお客さまと面識があった私が交渉にあたることになったのです。
平日は米国のプラントで働いていたため、金曜日の夜のフライトでブラジルに飛んで、土日に幹部の方と話をしたり、状況確認を行なったりして、月曜日の夜のフライトで米国に戻り、火曜日からまた普通に勤務するといった生活を送っていました。
勝:
それは激務ですね!
宮永:
そういう働き方を続けていると、米国のお客さまが「(休みなく両国を往来して)大変ですね」と言って、私の勤務形態に理解を示してくれるようになってきた。すると今度はブラジルのお客さまが「米国でもむずかしい交渉をしているそうですね」と、半ば同情してくれるようになったのです。
勝:
宮永会長の誠実なお人柄と粘り強い姿勢が相手にも伝わったのでしょう。
宮永:
ブラジルのお客さまは立派な方でしたから、誤りをきちんと認めるのなら、我々の意向(辞退)を受け入れてくださることになりました。ブラジル人にはウエットなところもあるなあと思う反面、ご迷惑をおかけしてしまったと今でも申し訳なく思っています。
勝:
海外でむずかしい交渉をまとめられたり、先ほどのお話にあった、日立製作所と合弁会社を立ち上げてこられたわけですが、他社との協議を成功させる秘訣みたいなものがありますか?
宮永:
自分の考えを押し付けるような言い方は日本人は得意ではないので、謙虚かつ控えめに、双方の目的と相違点、妥協できる点とできない点を明確にすることは必要でしょうね。それから、相手の会社についてよく勉強することです。足元を見るような姿勢ではなく、そこで働く人々が過去にどんな素晴らしい実績を残してきたのか、自分たちがいかにその仕事を評価しているのかといったことを伝えることが重要です。そのうえで、率直にお金の交渉を行なうのです。お互いに相手の立場を慮り、議論を通してフェアにやっていく。特に海外でM&Aや協業を成功させるポイントは、そのあたりにあると思います。

全社的な立場から課題に向き合う

勝:
2006年に(合弁会社から)三菱重工に戻られてからも、豪華客船の造船問題、原発の仲裁問題、MRJ問題など、次から次へと課題が発生し、それらに取り組まれました。
宮永:
会社や周りの人は、苦しい事業の立て直しや再編、想定外の問題対応への適性が私にあると見てくれていたようです。
三菱重工に戻ってきた時も、機械・鉄構部門のトラブルが残っていましたので、その後始末に携わりました。副社長になったのは、そうした対応にある程度、目処が立った時期でしたが、今度は、日立さんとのエネルギー部門の統合や、MRJ(三菱スペースジェット)の開発の遅れなど、全社的に取り組むべき課題の解決にあたることになりました。
勝:
2013年に社長に就任されて、事業本部制からドメイン制への移行や、世界規模でのM&A、事業再編など、国内外で“集中と選択”を進めてこられましたが、ご苦労などはなかったですか?
宮永:
高度経済成長期にはうまく機能していた事業所制が、内需が減ってくるとネガティブな面が目立つようになってきた。「縦割りの弊害」とよく言われますが、縦割りの組織を抱えた工場が1つの会社のようになり、さらにそれらが複数並んで“二重サイロ”化し、互いに競争するという状況に陥っていました。
一方、GEやシーメンスの成長を海外で見ていた私は、なぜ日本だけ鎖国状態なのか? クローズドな日本のやり方では国際競争を勝ち抜けない、世界に通用しないロジックは捨てていかなければならないと感じていました。日本独自の良さ・強さをよりいっそう引き出すために、もっと大胆に、もっと真剣に海外のことを勉強しなければならない、と。
勝:
海外に精通した人材を育てていかないといけないですね。
宮永:
おっしゃる通りです。今、我々の米国の会社には、従来なら日本で育てて、外には出さなかったような幹部候補社員を送り込んでいます。若いうちに海外を知ってもらうためです。また、シーメンスと立ち上げた製鉄機械の会社がロンドンにあるのですが、そこにも定期的に財務他コーポレート担当者を派遣して、三菱重工的ではない発想にもとづくコーポレートガバナンスを学ばせています。それと同時に、我々の良さは何なのか? ということも考えさせるようにしています。

エネルギートランジションへの対応

勝:
三菱重工は、今後、どのような方向へ進んでいかれますか?
宮永:
我々は、社会の基盤を支える会社だと認識しており、「エネルギー」関連の技術をもっとも重視しています。
エネルギートランジションを進めるうえで欠かせないのが「ガスタービン」で、我々は長年にわたり天然ガスを効率的に燃やす技術を研究・開発してきました。この技術は簡単に真似できるものではないので、先進国のみならず、世界中で使ってもらえるようにしたい。そのためには、さらなる改良、メンテナンスの効率化、センサ技術と融合したAI、ネットワークとの連携などが求められます。今後は“システムプロバイダ”もしくはハード寄りの“プラットフォーマー”を目指して、ユニバーサルなサービスを拡大させていきたいです。
もう1つは「原子力」です。革新的な軽水炉他の開発や原子燃料サイクルの確立など、エネルギートランジションを考えると、原子力発電は人類が避けて通れない道であり、この分野の開拓は我々の責務であると考えています。

有限の人生を楽しもう!

勝:
最後に、宮永会長が大事にしている言葉と若い世代へのメッセージを頂戴できますか。
宮永:
意味的にはちょっと矛盾しているのですが、自分で考えた「前向きな諦観」という言葉があります。有限な人生において諦めざるを得ないことはあるけど、常に前向きでいよう――という意味です。ただ、これだけだと少し味気ないので、「あとにつなぐ情熱」という言葉を足して「前向きな諦観とあとにつなぐ情熱」とすれば、元気が出そうじゃないですか(笑)。これまでの人生を振り返って、ストレスの多い仕事をこなしながらも、なんとかやってこられたのは、この「前向きな諦観とあとにつなぐ情熱」があったからだと思うのです。
人生は有限だからこそ楽しいわけで、若い社員には「今を一生懸命生きて、楽しんでください」といつも言っています。最近は変化が激しすぎて、普遍的な価値観やスタンダードたるものがなく、全てが雑多です。ですから、時流に流されないよう、自分の考えや哲学をしっかり持つことが大切です。あと、これは私の希望でもあるのですが、「人に優しくあろう」という気持ちを忘れず、謙虚に物事に接していれば、心豊かに、より生きやすくなると思います。功利主義的に言えば、「そのほうが便利ですよ」となるのかもしれませんね(笑)。
勝:
素晴らしいメッセージですね。本日はお忙しいなか、ありがとうございました。


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