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人と空気とインターネット 身体感覚と言語能力

IIJ.news Vol.176 June 2023

身体感覚と言語能力が不即不離の関係にあることは言うまでもない。
だとすると、身体を持たないChatGPTは、本当の意味で「言語(=知性)」を持ちうるのだろうか?

執筆者プロフィール

IIJ 非常勤顧問

浅羽 登志也

株式会社ティーガイア社外取締役、株式会社パロンゴ監査役、株式会社情報工場シニアエディター、クワドリリオン株式会社エバンジェリスト
平日は主に企業経営支援、研修講師、執筆活動など。土日は米と野菜作り。

ChatGPTは「知性」を持てるか?

前回、ChatGPT(以下、Chat君)について取り上げましたが、その後、Chat君は世界中で一大ブームとなってしまいました。これほど大きな社会現象を経験するのは、インターネットの立ち上がりの時期以来でしょうか。

筆者は個人的に、Chat君の登場は「AIにとってのWindows95のようなもの」だと考えています。インターネットも黎明期には、個人が接続して利用するための手段がなく、なかなか広まりませんでした。ところが、1995年の終わりにインターネット接続機能を標準装備したWindows95がリリースされ、一大ブームが巻き起こり、潮目が一気に変わって、爆発的に普及したのでした。今回のChat君のブームも、一般人からはあまりよく見えなかったAIの研究開発成果が、初めて一般の人でも手軽に使えるかたちで開放された、画期的な出来事だったと言えるのではないでしょうか。

それにしても、Chat君と対話していると、忘れかけていた「シンギュラリティ」という言葉を想起させられます。たしかに、言語を獲得したことが人間の知能の発展に多大な貢献をした(あるいは、知能が発展した結果、言語を獲得するに至ったという順番なのかもしれませんが、だとすると、Chat君はすでに十分な知能を持っていることになってしまいます)ことは間違いないと思いますが、現在のような言語能力を獲得したChat君の延長線上に、はたして人間の知能を凌駕するAIの出現という大事件が、私たちを待ち受けているのでしょうか?

そもそもChat君が知的な言語能力を獲得した(ように見える)のは、人類が進化のなかで言語能力を獲得した過程とはまったく異なっています。ごく簡単に言うと、人間の脳を模倣した深層学習のモデルのもと、アルゴリズムやパラメータを調整しながら、高速な計算資源を活用して膨大な言語データの学習を繰り返していたら、ある日、人間のような対話ができるようになってしまった、というのです。Chat君はおそらく、コンピュータ科学の父、アラン・チューリングが考案した「チューリング・テスト」をパスしているでしょうし、大学入試共通テストや医師国家試験にも余裕で合格してしまう実力も持っています。しかし、だからといってChat君が「知性」を持っていると言っていいのでしょうか?

Chat君が人間とは大きく違うのはどこなのかというと、それはChat君が人間のような身体を持っていないという点です。あまり意識したことがないとは思いますが、人間の場合、言葉の意味の理解には、身体感覚というものが大きな役割を果たします。

例えば子供は、まず「痛い」とか「熱い」といった言葉を覚えるのではなく、感覚の体験が先にあって、そのうえでそれらを言い表す言葉を覚えていく、という順番です。つまり、外からの刺激や身体の動きや感覚、そういったものがわれわれにとって第一義的な意味の土台になっているのです。日記などを付けてみると、どこに行って、何をして、どう思った的な事柄が中心になるわけで、その記述の多くは身体感覚を通じてもたらされた体験の記憶を伴っているはずです。一方、抽象的な概念を言い表す言葉も、身体感覚を伴う言葉のメタファーになっているものがほとんどです。例えば、「〜であることは明らかだ」などは、明暗の感覚を伴うメタファー表現ですし、理解するという意味の「わかる」も、もともとは「見分けられる」という視覚的に区別ができることのメタファーと言えます。つまり我々は、これらの「知覚的意味」をベースに、「認識的意味」へと拡張することで、抽象的な概念であっても言葉で表現し、議論できるレベルの知能を獲得したと言えるのです(参考:『メタファー思考』瀬戸賢一)。

このようにさまざまな言葉の大元を吟味すると、身体感覚や動作に結びついたものが意外にたくさんあることに気がつきます。そう考えると、ある状況に関してChat君が「○○の見通しです」なんて言ったとしても、それを実際に「見て」判断したわけではないその言葉が、実に表面的で薄っぺらなものに感じられ、とても信じる気になれなくなってこないでしょうか?

「心」の起源

下掛宝生流しもがかりほうしょうりゅうの能楽師、安田登さんの「身体感覚で『論語』を読みなおす。」という本を読んでいたら、とても興味深い記述に出会いました(これもメタファー表現ですね)。すなわち、「心」や「心」を部首に持つ漢字のグループが、孔子の時代には、まだ一般的には使われていなかったというのです。同著によると、どうやら「心」グループの漢字は、孔子の活躍した時代から500年ほど前に突然出現し、その後しばらくはあまり使われなかったそうです。さらに、孔子が生きていた時代には、「惑」という漢字が存在していなかったことを挙げ、『論語』の「四十にして惑わず」は、「40歳になったら惑わなくなった」という意味ではなかった! というのです。これは驚きです。世の中には「40になったのに、惑ってばかりだぁ」と嘆く人が多いですが、ご安心ください(笑)。そういう意味ではなかったそうです。では、どういう意味だったと考えられるか? その詳細は同著をお読みいただくとして、ここで指摘したいのは、漢字自体の成立が紀元前1300年頃で、孔子が生きていた紀元前500年頃から500年前の紀元前1000年頃に「心」という文字ができた、すなわち漢字が生まれてから300年も経って、初めて「心」という文字が生まれたという点です。これはつまり、文字ができたことが、「心」という概念の成立になんらかの影響を与えた、ということなのかもしれません。安田さんは、米プリンストン大学の心理学の教授、ジュリアン・ジェイスンの「心が生まれたのは3000年前だ」という説を挙げ、中国で「心」という漢字が使われ始めた時期と合致していると指摘しています。

洋の東西を問わず、人間が「心」を持ったのが今からわずか3000年前だというのは、意外に最近のことのように感じられます。同著で指摘されているように、漢字にはたくさんの身体の部位や、動作を象った部首が使われています。また、先に紹介した瀬戸さんの本では、英語にも“look up to”(尊敬する)など、動作をもとにしたメタファーが溢れていることが指摘されています。このように、人類が文字によって身体感覚を抽象化・相対化することで言語を発展させ、「自我」を認識し、「心」を持つに至ったのだとすれば、身体を持たないChat君は、いつまでたっても人間のように「心」を理解するレベルの知性は獲得し得ないのかもしれません。

そんなことをつらつら考えていると、現代人が軽視しがちな「身体感覚」というものを改めて見直し大事にすることが、AIに仕事を奪われないための秘訣なのかもしれないと思えてきました。ということで、今日も農作業に出かけることにします。


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