ページの先頭です


ページ内移動用のリンクです

  1. ホーム
  2. IIJについて
  3. 情報発信
  4. 広報誌(IIJ.news)
  5. IIJ.news Vol.175 April 2023
  6. 株式会社ソシエテミクニ 代表取締役 三國 清三氏

社長対談 人となり 株式会社ソシエテミクニ 代表取締役 三國 清三氏

IIJ.news Vol.175 April 2023

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。
第26回のゲストには、フランス料理の世界的シェフで株式会社ソシエテミクニ代表取締役の三國清三氏をお招きしました。

株式会社ソシエテミクニ

代表取締役

三國 清三氏

1954(昭和29)年、北海道増毛町出身。札幌グランドホテル、帝国ホテルで修行し、駐スイス日本大使館ジュネーヴ軍縮会議日本政府代表部料理長に就任。その後も著名レストランで修行を重ね、82年に帰国。85年、オテル・ドゥ・ミクニを開店(2022年、閉店)。13年、仏ラブレー大学より名誉博士号を授与される。15年、日本人料理人で初めて仏レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役社長

勝 栄二郎

味覚はホヤで鍛えた

勝:
本日は、三國さんが世界的なフレンチのシェフになっていった半生をうかがいたいと思います。最初に、どのような幼年期を過ごされたのか、教えていただけますか。
三國:
僕が生まれた北海道の増毛は、高倉健さんの映画『駅 STATION』の舞台になった街として有名です。険しい雄冬岬に阻まれて、国道が通るまでは、船で渡ってくるしかない陸の孤島。日本海に面していて、石狩湾を挟んで、小樽の北に位置します。かつてはニシン漁が盛んで、網元さんのニシン御殿が建つほどでした。
三國家も網元でしたが、三男坊だった親父には手漕ぎの船しか与えられず、それで毎日、漁に出ていました。小さい船ですから、漁獲なんて高が知れています。そこに追い打ちをかけるように、昭和28年――僕が生まれる前年に突然、ニシンが獲れなくなった。ですから、うちは本当に貧乏でした。
勝:
ご兄弟は?
三國:
姉が2人と兄が2人、あと弟が2人います。我々の頃になると、みんな高校に進学するようになっていましたが、兄と姉は中卒で働きに出て、仕送りをしてくれました。それでも貧しかった。当然、「高校に行きたい」なんて言えないので、同じような家庭環境だった友人と2人で、担任の先生に相談に行ったのです。「オレらも高校、行きてぇ」と(笑)。
勝:
どうなりましたか?
三國:
先生は僕らのために札幌の米屋の丁稚奉公を探してくれました。店に住み込み、食事付き、お金ももらえて、夜間学校にも通える! それで札幌に出たのです。15歳でした。
勝:
当時の食生活を振り返って、今のご職業に結びつくような思い出はありますか?
三國:
日本海はすごく荒れるので、しょっちゅう漁に出られなくなる。すると親父たちは酒盛りを始めるのです。僕は「早く刺身、持ってこい!」とか言われて、小学生の頃から魚をさばいていました。そうこうしているうちに時化がおさまると、早朝、親父と浜に行くのです。
勝:
何をなさるのですか?
三國:
鮮度がいい魚介が打ち上げられていて、そのなかにホヤがあった。それを洗って、その場で食べるのです。あとになって知ったのですが、「甘い、しょっぱい、酸っぱい、苦い、うま味」という“五味”が全て揃っている食材は、ホヤだけなんです!
勝:
小さい頃にそういう食材に出会えたことは貴重ですね。
三國:
僕の味覚は、ホヤで鍛えられました。

15歳で初めて食べたハンバーグ

勝:
札幌での生活はいかがでしたか?
三國:
丁稚奉公に入ったお米屋さんの長女が栄養士で、毎晩いろんなものをつくってくれました。マカロニグラタンとか、ポークソテーとか。
そんなある日、ハンバーグが出てきた。円盤みたいな物体に黒いソース――ウスターソースとケチャップだったと思うのですが――がかかっていた。小さい頃、お袋とキノコを採りに行くと、ナマで食べてしまうんですよ。するとお袋から「黒いのは毒だぞ!」と言われた。だから黒いソースを見た途端、「毒だ!」と思ったのですが、住み込みの仲間はみんなペロッと食べていて、死んでねぇ(笑)。で、おそるおそるソースを箸で舐めてみたら、甘酸っぱい――そんな味は、この時が初めてでした。
次に円盤を箸で切ってみたら、汁がジュワっと出てきて、ソースをちょっとつけて食べたら、めちゃめちゃ旨い! お姉さんに「コレ、何だべ?」って聞くと、「キヨミちゃん、ハンバーグ食べたことないの?」と、そしてすかさず「札幌グランドホテルのハンバーグはこの百倍美味しいのよ!」と言った。その瞬間、「オレは札幌グランドホテルでハンバーグをつくるんだ!」とインプットされたのです。
勝:
念願叶って、札幌グランドホテルで働くようになったわけですが――
三國:
まずは社員食堂の飯炊きからスタートしました。社員食堂ですから6時くらいには終わるのですが、ちょうどその時間帯から、宴会場の食器が戻ってくる。洗い物が山積みになっていく様子を見て、当時お世話になっていたコックの青木(靖男)さんに、「洗い物、手伝っていいですか?」と聞くと、「それは助かるよ」と。それから毎日、3、4時間かけて1人で全部、終わらせるようにしたのです。
勝:
どうして洗い物をしようと思ったのですか?
三國:
遊ぶお金もないし、家に帰ってもすることないし(笑)。
勝:
楽しかったですか?
三國:
そうですね。今でも洗い場って、みんな嫌がるんですけどね。10時くらいに先輩たちが戻ってくると、洗い物が全て綺麗になっているので、「ラーメン食いに行くか!」と、毎晩、ススキノに連れて行ってもらいました。
半年くらい経った頃、青木さんに「キヨミ、ちょっと来い」と人事課に呼ばれて、「明日から正社員だ」と言われた。異例中の異例で、16歳で正社員にしてもらいました。
僕は「原生林」というレストランに配属されて、仕事を覚えていきました。18歳になると、同い年の高卒が入ってきた。当時は僕も生意気で、「お前ら、そんなこともできねぇのか!」と毎日喧嘩してました。そうしたら、ある先輩に「キヨミ、ここでちょっと仕事ができるからって、東京には帝国ホテルっていう日本一のホテルがあって、村上(信夫)さんっていう“料理人の神様”がいるんだぞ」と言われた。僕は小さい頃から貧乏で苦労してきたので、神様を恨んでいた。だから先輩の言葉に反応しちゃったんです。「神様がいるなら、どうしてもその『村上』という人に会いたい!」。いてもたってもいられなくなって、青木さんに帝国ホテルで修業したいと直談判したら、「お前は一度、言い出したらきかないからな」と、知り合いに頼んで紹介状を用意してくれました。

料理人の神様に出会う

三國:
東京で村上さんに会いに行くと、「パートタイムで働いて、(正社員になる)順番を待ちなさい」と言われて、翌日から「グリル」というレストランの洗い場で働き始めました。
帝国ホテルには650人(!)のコックさんがいて、その頂点に村上料理長がいました。実は上京前、札幌グランドホテルの料理長に、「キヨミ、やめとけ。東京なんて、みんな鬼だぞ」と引き止められていました。
勝:
帝国ホテルでは料理をつくられていたのですか?
三國:
いえ、ずっと洗い場です。パートのまま、18、19……20歳になった。「どんなに一生懸命に頑張ってもダメなのか」と、20歳の夏、初めて挫折を味わいました。もう札幌には戻れないから、こっそり増毛に帰ろう……と。でもその瞬間、「くそっ!」と思い、グリルの親方に「金は要らないから、18のレストランの洗い場をやらせてください」と頼んだのです。今でもそうですが、帝国ホテルには18の料理店があった。増毛に帰る前に、「帝国ホテルの全部の洗い場をやろう! 全ての鍋をピカピカにしてやる!」――開き直ったわけです。次の日から18の洗い場を毎日、回って行きました。
10月、村上料理長から呼び出された。いよいよ「北海道に帰りなさい」と言われるのかなと思って料理長室に行くと、帝国ホテルの名物社長だった犬丸(一郎)さんもいて、「年が明けたら、スイスに行きなさい。ジュネーヴに赴任する大使から『帝国で一番腕のいい料理人を派遣してくれ』と頼まれて、君に決めたから」と命じられた! ヨーロッパなんてまったくの想定外で、最初、「何を言ってるの?」と、全然ピンとこなかった。でも、次の瞬間、増毛の吹雪がわーっと脳裏に浮かんで、「あそこに帰るのはイヤだ!」と思い、即答で「行きます!」と答えたのです。
勝:
きっと三國さんの働きぶりを陰から見ていて、熱心さ、一途さを買ってくれたのでしょうね。
三國:
当時、村上料理長はNHKの「きょうの料理」の講師を務めていて、その収録をグリルで行なっていたのですが、準備も1人でやって、誰も手伝ったりしていなかった。それで僕がフライパンを出したり、食材を用意するようになり、やがて「三國君、ちょっと塩しといて」と、助手のような役割をこなすようになったのです。そんな時の手際やセンスを見てくださっていたのかもしれませんね。

ヨーロッパでの修業時代

勝:
向こうで修業されたお店は、ほとんどが三ツ星だったそうですね。
三國:
大使館で働きながら、まずローザンヌ近郊のジラルデで修業しました。天才・ジラルデも当時はまだ三ツ星ではなかったですが、そのあと三ツ星になりました。それからフランスに入り、トロワグロ、オーベルジュ・ドゥ・リル、ロアジス、ル・ムーラン・ド・ムージャン、カメリア、アラン・シャペル――カメリア以外は全て三ツ星でした。
勝:
お店を移る時は、推薦状をもらうそうですね。そんなふうに修業した日本人は三國さんのほかにいないのでは?
三國:
日本から来る料理人は「三ツ星で働けるならタダでもいい」という人もいる。でも、僕は「勉強しに来たんじゃない。仕事をしに来たんだ」と、サティフィカ(推薦状)を携えて行くのです。まあ、どこでも最初の1カ月は仕事を見られますが、そこで信頼を得ると、良い持ち場を与えてくれます。
勝:
あちらは分業制ですよね?
三國:
はい。魚や肉も調理しますが、やはりソースがメインなので、ぼくも最後はソーシエになりました。
勝:
日本に帰ろうと思ったキッカケは何かあったのですか?
三國:
最後に行ったのが、「厨房のダ・ヴィンチ」と呼ばれていたアラン・シャペルのお店で、27歳から28歳にかけてでした。日本人の得意な魚料理を任されていたのですが、3カ月くらい経った頃、突然、シャペルさんに「セ・パ・ラフィネ(洗練されてない)」と言われた。そのひと言だけ。「ええっ?」って感じでした。
お店があったのはミオネというリヨンの北にある小さな村で、本当に何もないところでした。朝は5時、6時から働き始めて、後片づけを終えるともう夜中。しかも修道院に住まなきゃならない! 3畳くらいに仕切られたところに寝起きして……。あの時期が一番きつかった。
我々料理人は持ち回りで「マンジェ」というまかない料理をつくることになっていて、夏にその番が回ってきた。僕があっさりした料理を出したら、「バター、クリームをもっと入れてくれ!」と、自分で勝手に足してドロドロにしちゃって……。「親父もお袋も、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなこうやってきたんだ」と、彼らが言うのを聞いて、ハッとしました。「フランス料理では、こいつらにかなわない」と。今、振り返ると、これが二度目の挫折でした。それで自分好みの、自分に合った料理をつくろうと、28歳で日本に帰ることにしたのです。

「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープン

勝:
8年におよぶ修業を終えて、日本に帰って来られてからは――
三國:
まず、市ヶ谷に開店した「ビストロ・サカナザ」で1年8カ月、料理長をやりました。まだフランスにいた時に「シェフをやってほしい」と、スカウトに来てくれたのです。村上料理長がホテルのポストも用意してくれていたのですが、向こうで修業したのはどれもオーナーシェフが仕切るレストランだったので、僕も彼らのように街場で料理をつくりたかった。ビストロ・サカナザを辞めたあと、四ッ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンしました。
勝:
お店を開く際の資金は、どうされたのですか?
三國:
実は、貯金が一銭もなくて(笑)。決めていたのは30歳でお店を始めるということだけで……。店舗は緑に囲まれた住宅街の一軒家を探していたのですが、なかなか良い物件が見つからない。そんな時、四ッ谷にあった洋館が目にとまった。一緒に歩いていた不動産屋さんが「人が住んでいるみたいですよ」と制止するなか、僕は「人がいるからこそ、頼めるんじゃないか!」と言って、呼び鈴を鳴らしたのです。交渉の結果、その洋館を貸してもらえることになり、先に店が決まりました。次に、レストランをやるには、お皿やグラス、キッチンが必要ですが、そのお金もない。そこで知り合いに、「今度、店をやるんだけど、お金がないから僕を担保に……」と借金を頼んだら、みんな快諾してくれた。最後、肝心の運転資金がどうにもならなかったのですが、「リース会社なら担保なしで借りられる」と聞いて、今はもうなくなった某社を訪ねると、「担保は?」と聞かれて、「腕です!」と答えたら、「君、面白いね」と、お金を貸してくれたのです。
勝:
へええ(笑)。四ッ谷のお店には、フランスで「洗練されてない」と言い放ったアラン・シャペルさんもいらしたそうですね。
三國:
彼が亡くなる2カ月くらい前に食べに来てくれました。
勝:
いつ頃のことですか?
三國:
30年くらい前、たしか開業から5年目だったと思います。シャペルさんは、僕が彼のもとで働いていた時、すでに僕という料理人を見抜いていたんだと思います。
勝:
と言いますと?
三國:
「なんで日本人がここで働いているんだ? 君には君にしかつくれない料理があるだろう」と。日本に帰れとは言いませんでしたが、彼の「セ・パ・ラフィネ」のひと言で僕は帰国を決意した。そして味噌・米・醤油など日本の食材を使ってシャペルさんに料理をお出ししたのです。そうしたら「君は我々の料理を日本の風土に合わせて見事に“ジャポニゼ”(日本化)してのけた! この料理には、我々が感謝しなければならないほどの価値がある」と言ってくれた。その言葉を聞いて、自分の料理は最終的に「ジャポニゼ」に行き着いたのかなと感じました。

夢の実現に向けて

勝:
昨年末、オテル・ドゥ・ミクニを閉店されましたが、どういう思いからですか?
三國:
1985年にオープンした時は30席で、それが80席になって、その後もさまざまなプロジェクトを手がけました。そんな最中、僕をすごく可愛がってくれた片岡仁左衛門さんから、「お前なぁ、屏風は広げると倒れるんだぞ」と言われたりした。
やっぱり僕は根っからの料理人なので、自分1人で切り盛りして、全てに目が届くお店をやりたい。毎日、買い出しに行って、「お客さん、今日はこういう素材がありますよ」みたいな。スタッフが増えて責任も増すなか、そういう憧れが強くなる一方、「現世では無理そうだから、来世で」と半ば諦めていました。
店は昨年、37年目でした。その間、1億総グルメ時代、バブル崩壊、3・11、リーマンショック――まさに激動の時代を乗り切ってきた。それがコロナ禍により2020年の4月から5月にかけて、人生で初めて店を閉めて、仕事ができない状態になった。あの2カ月を経て、「やりたいことを来世に持ち越すなんて、絶対に後悔する!」そう思ったんです。
僕は来年、70歳。そこから10年、80歳までがんばりたい。70歳で再出発するには今年の秋にお店を再開したいから、昨年末にいったん閉めて、今、カウンター8席だけのお店に改装しています。
勝:
そうですか。楽しみですね。

正面から突っ込め!

勝:
最後、若い人に向けてメッセージをいただけますか。
三國:
小学生の頃から親父と漁に出て、日本海は波が荒いので小さな船だとおっかないんですよ。そんな時、「どんな大波でも真っ直ぐ突っ込めば(船は)沈まない」と教えられました。「呑まれる!」と思った瞬間、船を横に向けちゃうと沈んでしまう。波はかぶりますけど、真っ直ぐ行けば、必ず乗り切れるのです。親父に叩き込まれたこの教訓を若い人にも贈りたいです。
勝:
お父様の言葉、素晴らしいですね。今日はお忙しいなか、本当にありがとうございました。


ページの終わりです

ページの先頭へ戻る