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社長対談 人となり 公益財団法人 連合総合生活開発研究所 理事長 古賀 伸明 氏

IIJ.news Vol.170 June 2022

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。
第23回のゲストには、連合総研理事長の古賀伸明氏をお招きしました。

公益財団法人 連合総合生活開発研究所

理事長
元日本労働組合総連合会 会長

古賀 伸明 氏

1952年生まれ。75年、宮崎大学工学部を卒業し、松下電器産業(現パナソニック)に入社。同社の労働組合中央執行委員長等を経て、2002年に電機連合中央執行委員長、05年に日本労働組合総連合会(連合)事務局長、09年に第6代連合会長に就任(15年まで)。現在、公益財団法人連合総合生活開発研究所理事長。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役社長

勝 栄二郎

好奇心旺盛だった幼少期

勝:
古賀さんとは20年近いお付き合いになりますが、卓越したリーダーシップを持たれ、人の話をじっくりお聞きになる方だという印象を持っています。
さて、ご出身は福岡県の八幡とうかがっておりますが、幼少の頃はどんなお子さんでしたか?
古賀:
私が生まれたのは、今の北九州市、当時はまだ八幡市でした(※1963年、門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市の五市が合併し、現在の北九州市となる)。ご存じの通り、八幡製鉄所の企業城下町でしたから、小学校のクラスの7〜8割は製鉄マンの息子・娘でした。
勝:
古賀さんのお父様は?
古賀:
九電(九州電力)です。ですから、学校ではなんとなく肩身の狭い思いをしていました。
後年、両親に「自分はどんな子どもだった?」と聞いたことがあるのですが、「これなに? これなぜ?」といつも尋ねてくるので、閉口していたと言っていました。
勝:
好奇心旺盛だったのですね。
古賀:
学校から帰ってくると、小学校1年生から6年生までみんなが一緒になって遊んでいました。そのなかにガキ大将がいて、近所のおじさん・おばさんから叱られたりするのは日常茶飯事でした。そうした環境のなかで「社会の秩序」というものを自然に身につけていったのだと思います。やってはいけないこと、集団における自分の役割などを、子どもながらに学んだ気がします。
高校生になると、音楽に夢中になりました。我々は最後のビートルズ世代でしたから、LPを買うためにアルバイトし、文字通り"すり切れる"まで聴きました。
そんな生活をしていたので、当然、大学受験には落ちました(笑)。それで浪人することになったのですが、マージャンとパチンコに明け暮れて、勉強なんかしないわけです。うちの父は子どもを叱ったことなどほとんどなかったのですが、その時ばかりは「浪人して遊んでいるなら、すぐに働け!」、さらに「(大学は)国立でないとダメだ」と言われました。それで日本全国、北から南まで受かりそうな国立大学を探しました。結局、地元の九州工業大学は2回受けて2回とも落ちましたが、宮崎大学になんとか合格することができました。

ジャズの魅力

古賀:
1970年にビートルズが解散すると音楽仲間の多くはロックに走ったのですが、私にはなぜか(ロックは)合わなかった。71年に大学に入学したら、ものすごいジャズマニアと友人になり、ジャズにのめり込みました。
勝:
楽器は演奏されていたのですか?
古賀:
トランペットを吹いていました。下手くそでしたがバンドを組んで、大学で演奏したりしていました。
勝:
今でもジャズはお聴きになられますか?
古賀:
聴きます。趣味と言えば、ジャズです。レコードは7〜800枚、CDもかなりあります。
勝:
ジャズの魅力は何ですか?
古賀:
インプロヴィゼーション(アドリブ)です。「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」という言葉がありまして、同じ曲でも奏者によってまったく違いますし、同じ奏者でも演奏するたびに変化します。大きな枠組みのなかで自由に即興を奏でる、自分を表現する――これがジャズの醍醐味だと思います。
勝:
古賀さんの生き方にも通じるところがあるのでしょうね。
古賀:
ジャズ特有の「アフタービート」を聴いていると、なぜかホッとするのです。もう1度トランペットを吹いてみようかと思ったこともありましたが、さすがにそんな元気はないですね(笑)。

就職先はナショナル!

勝:
大学卒業後、松下電器に就職されました。
古賀:
私の学生時代は高度経済成長の末期でしたが、就職のことはほとんど考えていませんでした。そうしたらゼミの先生に「君だけ就職の相談に来ないが、どうするんだ?」と言われましてね。「組織の歯車になりたくないんです」と生意気なことを言ったら、「経験したこともないのに何がわかるんだ。とりあえず1度、就職してみろ」と諭されて、大学に来ていた推薦枠から就職先を探したら、希望者がいない「松下電器」という会社があった。恥ずかしながら、松下電器と言われてもピンとこなかったので、「松下電器ってどんな会社ですか?」と聞いたら、「ナショナルや!」と言われて、「ああ、松下幸之助のナショナルか!」ということで(笑)、入社試験を受けたのです。
勝:
それで見事パスされた。
古賀:
筆記試験は全然ダメでしたが、理系の学生には技術面接がありました。その内容を知っていたゼミの先生から「必ず卒論のテーマについて質問されるから、その話をできるだけ引き延ばしなさい」と事前に指南されていました。私のテーマは「スレッショルド・ロジック(閾値理論)」だったので、「松下には(閾値理論に)詳しい人はいないから……」と。その作戦が功を奏したのです(笑)。
これには後日談があります。私が松下の労働組合の委員長になった頃、当時(面接時)の人事部長と話す機会がありまして、「あの頃、松下は3種類の学生を採用していた。まず優秀な学生、次にクラブ活動をやっていた学生、もう1つはユニークな学生を採っていた」と言うのです。それで「私はいちばん最後の枠ですか?」と聞いたら、「企業秘密です」と言われて、大笑いしました。
勝:
(笑)

労働運動との出会い

勝:
最初の勤務地はどちらでしたか?
古賀:
1976年に名古屋に配属されて、11年間いました。
勝:
そんなに長くいらしたのですね。
古賀:
ただ、途中から労働組合の活動を始めたので、現場で働いたのは最初の4、5年でした。組合の役員になったのが79年で最初は非専従でしたが、82年から専従役員になりました。
勝:
なぜ組合活動に従事するようになったのですか?
古賀:
最初は組合のことなんてまったく知りませんでした。ところがある日、名古屋に来た最初の頃でしたが、机のうえに組合のビラが置かれていて、「松下労使 経営参加制度の協議」という文言が目に入ったのです。そういうビラはたいてい捨てていたのですが、その時は「なぜ労働組合が経営に参加するんだろう?」と気になって読んでみると、通常の労使協議の枠を越えて、労働組合が経営に参画する仕組みをつくろうとしていることがわかった。具体的には労働組合の三役、本部では本部三役と社長、支部では支部三役と事業場長が月に1度、意見交換するシステムを新たにつくるというものでした。これはドイツの共同決定制度を手本にした仕組みで、松下の組合の先輩が数年前から協議を進めていました。そしてちょうどその頃、交渉が最終段階をむかえていて、その経過が書かれたビラを私が目にしたのです。
勝:
それは非常に先進的な取り組みだったのでは?
古賀:
日本では松下がいちばん早かったです。
勝:
ドイツの共同決定制度は、会社経営にとどまらず、地域社会、ひいてはマクロ経済全体をも視野に入れた仕組みですね。
古賀:
おっしゃる通りです。ドイツでは社会的な対話が日常的に行なわれています。ヒトラーという独裁者を生み出した歴史を2度と繰り返してはならないという思いから、さまざまな人が対話を重ねて共同決定していくシステムが確立されたのでしょう。そこに目をつけた松下の先輩にも先見性があったと思います。
この仕組みは1978年、正式に導入されました。毎月、経営課題や職場の課題について自由に意見交換し、議事録は残さないものの、その場で交わされたことは紳士協定のもと遵守するかたちになっていました。
あの時代、私のような若い社員が事業場長と差しで話す機会なんてまずないですから、「組合の役員になるのも面白そうだな」と思ったのです。
組合の活動に少し関心を持つようになると、福祉やボランティアをはじめ、地域の課題解決に向けて市会議員や県会議員を組合から擁立するなど、幅広い活動をしていることがわかってきました。
同じ頃、ある講演会でこんな話を聞きました。「人の生き方には3通りある。他人に迷惑をかけながら生きる生き方。これは愚の骨頂です。次は、自分のことだけやる生き方。これはつまらないでしょう。3つ目は、人の役に立つ生き方。多くの人が3つ目の生き方を志すようになれば、社会はもっと良くなります」。
そんなふうに複数の偶然が重なったところに、先輩から「役員にならないか」と誘われて、組合活動を始めることになったのです。当初は、まさかずっと続けるなんて思いもしませんでした。

最年少で要職を歴任

勝:
その後、最年少となる44歳で松下電器産業労働組合中央執行委員長に就任されました。
古賀:
1996年でした。
勝:
さらに、電機連合中央執行委員長、連合会長をいずれも最年少でお務めになられた。若くして要職に抜擢された理由はどのあたりにあったのでしょうか?
古賀:
いろいろな巡り合わせと言いますか、世代交代のタイミングに、たまたま私がうまくハマっただけです(笑)。
勝:
古賀さんの活躍が目覚ましく、先輩の目にとまったのだと思いますが。
古賀:
松下の委員長になった時、松下単独で9万3千人の組合員がいました。のちに全松下労働組合連合会の会長も兼務しましたが、その時はグループ全体で16万人の組合員を擁していました。連合会長就任時も緊張しましたが、44歳で松下の委員長になった時は、身が引き締まる思いでした。ものすごい重責ですからね。
勝:
2009年、連合会長になられましたが、そこに至る経緯を教えていただけますか。
古賀:
2002年に電機連合の委員長になり1、2年経った頃から、(当時)連合会長だった笹森(清)さんに「早く連合に来い」と言われていました。笹森さんは、腰を据えた改革に取り組むために、若い世代にポストを託したいと考えていたのだと思います。電機連合の委員長は3年務め、05年に連合事務局長になり、09年に会長に就任しました。
勝:
古賀さんが連合会長になられて、連合も変化したように感じましたが、従来のやり方を変えたりしたのですか?
古賀:
労働組合や労働運動に関して、私は3つのことを意識していました。1つ目は、社会のなかで重要なセクターになることです。労働運動も戦後直後の「反対・対立」から、「要求」、そして「参加」へと移り変わっており、そうした流れを加速させるべきだと考えていました。
2つ目は、組合員だけでなく、「すべての働く人」の視点に立った活動です。その考えにもとづき、全ての運動を組合員だけでなく、全ての働く人を対象にしたものとしました。
3つ目は、個々の企業単位ではなく、社会全体を見据えた運動を展開することです。例えば、今、非正規雇用者が労働者全体の約4割を占めています。こうなった責任の大半は経営者にありますが、労働組合にも責任の一端があることは間違いない。そこでわが組織・わが企業を超え、社会の持続可能性を追求する社会的運動の必要性を訴えました。
勝:
社会全体を見据えた運動というお話がありましたが、組合活動の視座が1企業を越えて、社会や経済へと広がっていくと、政治との関わりが深くなっていきますね。
古賀:
おっしゃる通りです。その意味で大きな出来事だったのが、2009年の政権交代です。自分が生きているあいだに政権交代なんて起こらないと思っていましたが、幸いにも実現しました。結局、私が連合会長を務めた前半3年が民主党政権で、後半3年が自民党・公明党連立政権でした。
労働組合も組合員の職場環境だけでなく、生活全般をどうサポートしていくのかが重要になっており、組合員が暮らす地域の大切さ、コミュニティの活性化に今一度、目を向けなければならないと感じています。そこでの仕組みを変えていくには、市会議員や県会議員との連携、そして日本社会全体の課題は連合が担いながら、国会議員と連携していくことが不可欠になります。よって政治面での活動は、今後も運動の柱であり続けると考えています。

「連合大学院」を創設

勝:
2015年、法政大学に「連合大学院」を創設されました。その狙いを教えていただけますか。
古賀:
私が連合会長になった時、「働くことを軸とした安心社会」を、連合が目指す社会像に掲げたのですが、それを実現するには労働教育と労働運動を牽引するリーダーの育成が必要だと感じました。
現在、さまざまな課題に直面しており、人々が支え合う連帯社会を再構築するためには、労働組合や労働福祉団体、協同組合、NPO・NGOなど労働運動や社会運動の担い手を、体系的な学びを通して養成することが重要です。そのような視点から、法政大学の先生方と協議するなかで「連帯社会インスティテュート」という社会人を対象とした大学院をつくることになりました。それを「連合大学院」と呼んでいるのです。
勝:
連合大学院といっても、狭義の「連合」ではない、もっと広い意味が含まれているのですね。
古賀:
そうです。私のように"たまたま"労働運動に携わるようになり、連合会長にまでなってしまったというのではなく(笑)、もっときちんとしたかたちで人材を育成しようというわけです。すでに60名以上の卒業生を輩出していますので、彼らの今後に期待したいです。

日々の健康、座右の銘

勝:
健康面で気をつけていることはありますか?
古賀:
毎日1万歩以上、歩いています。あとは、ゴルフとストレッチです。飲食に関しては、お酒を多少……控えて、タンパク質を摂るようにしています。
勝:
体調も良さそうですね。歩いている時は、何か考えたりするのですか?
古賀:
何も考えないのが理想ですが、時々ふと思い浮かぶことがあり、それらが原稿のヒントになったりします。無意識のうちに自分と対話しているのかもしれませんね。
勝:
座右の銘はありますか?
古賀:
座右の銘は「Festina Lente(フェスティナ・レンテ)」というラテン語で、「ゆっくりと、たしかに」という意味です。これは、元同志社大学教授の竹中正夫(1925〜2006)先生から教えていただいた言葉です。
竹中先生は、京都大学在学中に学徒出陣し、復学・卒業後、同志社大学神学部に編入、さらに米イェール大学に留学した時に労働者教育の重要性に気づかれて、長きにわたり労働者の教育活動に尽力された方で、私も先生の教えを受けました。
「Festina Lente」は、私が電機連合の委員長になった際に初めて頂戴し、その後も折々の手紙や会話のなかで"ささやくように"使われていたので、非常に印象に残っており、座右の銘を聞かれるたびにこの言葉を挙げています。

失敗から学ぶ

勝:
最後に若い世代へのメッセージをお願いいたします。
古賀:
まず伝えたいのは、これは私自身が学んだことでもあるのですが――共感・信頼の大切さです。何かを成し遂げようとしたら覚悟や情熱はもちろん大事ですが、いくら正しいことを言っても、人はなかなか動いてくれません。ですから若い人、特にリーダーには、他者から共感・信頼を得る努力を続けてほしい。
2つ目は「トライする」精神を忘れてほしくない。かつてのように、ほかの誰かが定めたゴールを目指すのではなく、自ら目標を立てる、言い換えると、無から有を創り出す、そんな時代になっていると思うのです。そこで大切なのが、多少不安でもトライしてみることです。トライして失敗したら、失敗から学んでもう1度トライする。日本では失敗を避ける傾向がありますが、これからは「失敗は学びである」という文化を築いていかなければなりません。
ずいぶん前になりますが、シリコンバレーのファンド企業の投資先を決定する会議を傍聴したことがあります。そこの責任者は、まず「過去に失敗している会社」を選ぶよう指示しました。それで「ああ、失敗した会社を(投資先から)除外するんだな」と思っていたら、実はその逆で「失敗を経験した会社は(次は)成功する確率が高い」と言って、その会社がどんな失敗をして、今度は何にチャレンジしようとしているのかを分析し始めたのです。「1度も失敗したことのない企業は投資対象から外す」という考え方に接した時は、まさに「目から鱗が落ちる」思いでした。日本の常識とは正反対です。
「トライする」という意味では、松下幸之助氏の「成功の秘訣は、成功するまでやり続けることだ」という言葉も有名ですね。当たり前の話で、狐につままれたような気分になりますが(笑)。
勝:
(笑)
古賀:
ちなみに松下幸之助氏は、再び挑戦する時はよく考えて、工夫を怠るなとも言い添えています。つまり「失敗から学べ」という教訓です。
最後のメッセージは「自分自身を鍛えること」です。筋肉は使わないと衰えてしまうように、精神も適度な緊張感を与えていないと弛緩してしまいます。そのためには異分野の人との交流を心がけること、自分より高い知見を有している人と少人数で対話することが重要だと思います。
勝:
古賀さんは非常に広範な人脈をお持ちですね。加えて、記憶力が素晴らしい! いろんなことを克明に覚えていらっしゃる。
古賀:
いえいえ、大したことないです(笑)。人と話すのが好きなだけです。「人間の器は出会った人と体験した場面の数で決まる」というじゃないですか。知見の高い方とお話させていただくと、自分の学びになりますからね。
勝:
本日は貴重なお話ばかりで、とても楽しかったです。お忙しいなか、ありがとうございました。


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