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人と空気とインターネット 「もっと外を歌えばいいのに」

IIJ.news Vol.194 June 2026

今回は、若い世代の歌に触れた筆者が、内面に傾斜しがちな心境に想いを寄せながらも、そこから一歩踏み出す「外」への視点を呈示する。

執筆者プロフィール

IIJ 非常勤顧問 株式会社パロンゴ監査役、その他ICT関連企業のアドバイザー等を兼務

浅羽 登志也

平日は主に企業経営支援、研修講師、執筆活動など。土日は米と野菜作り。

内面へ向かう若者の歌

先日、定期的にやっている業界セッションがあったのですが、そこでやる曲として、誰かが Mrs. GREEN APPLEの「ケセラセラ」をリクエストしていました。開催一カ月前になっても、ドラマーが決まらないようだったので、最近の曲もやってみようかと、筆者が担当することにしました。話題になっていたのは知っていましたが、実際にどのような曲で、どのような歌詞なのかまったく知らなかったので、YouTubeの映像を見ながら曲を覚えて臨みました。

実際に演奏してみると、歌詞の言葉の残り方も違います。勢いのあるサウンドのなかで何度も繰り返し現れるのは、自分を励まし、自分を支え、何とか壊れずに今日を生き延びようとする若者の姿です。いかにも今の時代の歌だなと感じました。もちろん、それが悪いというのではありません。むしろ、傷つきやすさや不安を抱えながらも、何とか今日をやり過ごそうとする切実さが、この歌にはあります。世界に向かって大きく開いていくというより、まずは壊れそうな自分の内側を支え、励まし、「ケセラセラ」と呪文を唱えて自分を前に進ませようとしている、少し斜に構えた“人生賛歌”のようだと感じました。

そんなことを考えていたら、ふと、大貫妙子さんが以前ある番組で話していた言葉を思い出しました。「最近の若い人たちの歌詞は、内側を歌うものが多い、自分としてはもっと外を歌えばいいのにと思う」といった主旨でした。これは、単なる作詞の好みの話ではなく、歌がどこへ向かって開かれているのか、そして今の私たちがどういう世界に生きているのかを示す、大きな問いであるように思えます。

たしかに少し前までは、もっと「外」が歌われていました。それは単に風景描写があるという意味ではありません。街の空気、季節の移ろい、遠くの光、誰かの気配、そうしたものに触れることで、結果として心が浮かびあがってくる。内側の感情を直接歌うのではなく、外の世界を通して内面をじわりと立ち上がらせる。そういう歌がもっと多かったように思います。

俳句の世界でも、たとえば芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水の音」という句には、作者の気持ちはまったく書かれていません。ただ古池があり、蛙が飛び込み、水の音がする。その出来事だけが置かれています。けれども読む者はそこに、静まり返った時間の深さや、一瞬の生の躍動を感じ取るのです。内面が書かれていないからこそ、むしろ深く伝わる。心は、外の出来事に触れることで、かえって鮮やかに現れてくるのではないでしょうか。

大貫さんの「都会」という曲の歌詞にも、そういうところがあります。たとえば「値打ちのない華やかさ」という表現には、都会のまばゆさを知りながらも、それに完全には迎合しない視点があります。惹かれながらも、呑み込まれない。その距離感を支えているのは、都会ではない別の呼吸、別の時間、別の価値観なのでしょう。つまり、そこにはまだ「外」があったのです。

しかし、今は少し事情が違います。都会はもはや一つの場所ではなく、社会全体を覆う感覚や制度になってしまいました。どこにいても私たちは可視化され、比較され、評価されています。地方にいても、山のなかにいても、スマートフォンを開けば、そこに都会の論理が追いかけてきます。スピード、効率、競争、承認、自己演出……そうしたものが生活の隅々にまで入り込み、世界全体が「都会化」してしまったように感じられます。

そんな時代に歌が内面へ向かっていくのは、ある意味、自然なことかもしれません。外の世界が、心を預ける場所ではなく、むしろ自分をすり減らす場になっているからでしょう。だからまずは、自分の内側が壊れないようにしなければならない。歌は世界に向かって開くというより、自分を励まし、自分を支え、何とか今日をやり過ごすための言葉になっていく。今のヒット曲にはそうした切実さが刻まれているのではないでしょうか。

世界とのつながりを取り戻す

このことは同時に、私たちが何か大切なものを失いつつあることを示しているように思います。個人が大切にされることは重要です。自分の気持ちを持つこと、自分らしく生きること、自分の人生を自分で選ぶことは、近代がようやく手にした成果でもあります。ただ、そこでの個人が、世界から切り離され、孤立した主体として理解されるようになると、人は自分の内面を自分ひとりで支えなければならなくなってしまいます。

本来、人はそんなふうに単独では生きられないのではないか? むしろ、人は他者や世界との関わりのなかでしか自分を感じることができないのではないか?

ここで少し別の視点を入れてみましょう。アジア的、あるいは東洋的と言ってもいいかもしれませんが、そこには人間を“関係”のなかで捉える感覚がありました。まず独立した個人がいて、あとから他者や社会と関係を結ぶのではなく、むしろ人は最初から関わりのなかにあり、その結び目として「私」が立ち上がってくる。家族や共同体だけではありません。土地や季節、自然や風土、身体のリズムなども含めて、人は大きなつながりのなかで生きているという考え方です。

筆者はかつて、インターネットにはそうした失われた関係をつなぎ直す可能性があると信じていました。インターネットは本来、個を孤立させる技術ではなく、遠くの他者に触れ、埋もれていた知や声と出会い、小さな場どうしをつなぎ、個と世界とのあいだに新しい回路を開いて、閉じた共同体の外に出ながら、世界との関わりを豊かにする。現実味のない理想論かもしれませんが、インターネットはそんな可能性をたしかに持っていたと思います。

しかし実際には、インターネットは諸刃の剣でした。それは世界を開くと同時に、可視化を強め、他者との比較を加速し、承認不安を煽り、人をより孤立した個へと押し戻す装置になってしまった。多様な小さな世界をつなぐはずのものが、いつの間にか、全てを境界のない一つの都会的な地平に並べてしまう方向に働いてしまったようです。

それでもなお、大貫さんの「もっと外を歌えばいいのに」という言葉は、筆者には重く響きます。「外を歌う」とは、内面を無視するのではなく、外の風景や出来事、他者の気配のなかに自分の心を映し出すのです。直接「私」を語るのではなく、世界に触れることで、結果として「私」が多面的に現れてくる。今、私たちに必要なのは、個人を否定することではなく、孤立した個人という像を少し緩めることなのかもしれません。

歌は、そのための大切なツールの一つです。内面を歌う歌が悪いのではありません。ただ、そればかりになると、私たちの世界は少し息苦しくなる。だからこそ、時には「外を歌う」歌が必要なのです。風景を、街を、季節を、他者の気配を歌う時、私たちは、自分の心のなかに閉じこもるのではなく、世界とのつながりのなかで生きていることを、もう一度、思い出せるのではないでしょうか。


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