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ぷろろーぐ 創業三〇年

IIJ.news Vol.173 December 2022

株式会社インターネットイニシアティブ
代表取締役会長 鈴木幸一

「昔は『電話』という通信サービスを使っていたのです」。
やっとのことでインターネット接続の商用サービスを始めることができ、軌道に乗りかけた頃、創業の仲間がこのコピーを考えたのだが、結局、使うことはなかった。
IIJを創業したのは1992年。日本で最初のインターネット接続の商用サービスを提供した企業である。数人で始め、エンジニアの数は増えたのだが、1年以上を経ても、インターネット接続の商用サービスを始めることはできなかった。国内通信と国際通信が制度的にも峻別されていた時代だった。インターネットは、国境のない通信サービスである。IIJがインターネット接続サービスを開始するには、特別第二種電気通信事業者の免許を取得する必要があったのだが、財政的基盤が脆弱という指摘に阻まれて、監督官庁と長い交渉をせざるを得なかった。
米国では長期間にわたって国防省の予算が投じられ、21世紀に向けて覇権を取り戻すための国家戦略となっていた「インターネット」だが、日本では出資に応じてくれる企業はなかった。

創業記念日となった1992年12月3日、冷雨が降りしきる夕方、本社となる解体を控えたビルの寒々しいオフィスに集まったインターネットの関係者に厳しい状況を話すことは、無駄でしかなかった。明るい陽の光が溢れている米国の西海岸ではない。すぐにも霙(みぞれ)に変わりそうな天候のなか、人気のないビルで、洒落っ気一つない若者が元気よくビールで乾杯していた。集まりのなかにいた私は、穴に落ち込んでいくような気分だった。ライセンスも取れず、資金もなく、暗い将来しか思い浮かばなかった。
当時は、NTTが独占していた通信事業を変えようと、第二電電と呼ばれた事業者が次々と設立された時代であった。新たに参加した事業者は、電力、商社などを筆頭に、潤沢な資金を投入できる企業に限られていた。しかし、同じ電話サービスでNTTと競争することなど、所詮は無理な話だったはずである。一方、「インターネット」は20世紀最後の巨大な技術革新であり、電話ではなく、その通信技術はコンピュータ・サイエンスに負っているわけで、「通信」と「情報」の一体化を実現できるのである。将来、インフラはともかく、電話という通信手段を圧倒するはずだというのがIIJの基本的な理念だった。一方で、インターネットも通信に変わりはないと、これまでの通信会社の延長線上で理解され、厳しい財政基盤を要求されていたのである。
1994年3月、郵政省(現総務省)からサービスを開始してもよいというお達しがあり、なんとか目途が立った時、一緒にIIJを始めた浅羽君が、「広告を出せるようになったら、まずこれを使いましょう」と、紙に書いてきたのが冒頭のコピーだった。

過去を振り返ると、未来が消えてしまうのではないか。創業20周年を迎えた頃、厳しい時代を一緒に乗り越えてきた仲間が、「そろそろ社史をつくりませんか」と提案してきた。「過去を振り返って、どうするのだ」と、私があまりに素っ気ない返事をしたものだから、その話は立ち消えになった。過去を振り返ることで、別な視点から未来の形が見えることがある。その意味で、社史をつくる試みは精細に過去を振り返る機会となり、IIJの未来に対する見方もより深く、異なったものになったかもしれない。ともあれ、過去を振り返らないまま、遮二無二、未来に向かっているうちに30年が過ぎてしまった。
IIJがスタートした場所は、首相官邸に近い千代田区赤坂。1年半後に解体される予定の古びたビルだった。入居者の大半は、すでに引っ越しが終わりかけていた。知人に紹介されたそのビルは、費用が安いという1点で決めたのだ。かつてはショウルームとして利用された1階の空間で、遮るブラインドなどまるでなく、透明なガラス越しに、道行く人からも丸見えだった。
スタートしてもサービス開始の許可が下りず、その間はまるで収入の当てがないわけで、まさに食うや食わずの日々が続いた。毎月25日、ささやかな報酬を経理の女性が茶封筒に入れて渡すのだが、彼女は(もちろん私も)「25日になると、逃げ隠れをしたくなった……」と。夕刻までに中身が想像できるほどの薄い茶封筒をなんとか渡していた。
そんな日々が1年も続くと、オフィスの空気は澱み、重くなる。口には出さないが、サービスを始めることは、結局できないのではないか。そんな疑心暗鬼の思いを取り去ることができなくなっていった。朝から晩まで出資のお願いや金策、折衝などを行なっていた私は、若い仲間を居酒屋に誘っては、いずれサービス・インできる。トラブルが出ないように徹底して準備しておくこと。トラブルで役所に頭を下げることがないようにといったこと、さらには米国の状況などを話していた。インターネットが20世紀最後の巨大な技術革新であり、その将来はあらゆる産業を凌駕するほど大きく重要なのだと、安い居酒屋で彼らを鼓舞して、時間を潰していた。
暗かった1年半のあいだもIIJの社員は増え続け、サービス・インの準備に没頭しながら、なんとか生き延びた。ライセンスが下りると、すぐに品質の高い接続サービスを提供することができたのは、今、振り返ると、奇跡のような気もする。

1994年4月、ようやく商用のインターネット接続サービスを始めた。インターネットの利用を待ち望んでいた企業の数は、我々が対応しきれないほどで、数か月後には数百社を超えた。利用帯域は極めて限られていたのだが、IIJの独占ということもあって、利益率は高く、あっという間に経営は軌道に乗った。それ以来、次々と設備投資、開発投資、エンジニアの採用・育成に思い切った投資を続け、今日に至っている。その間も、固い壁に頭を打ち続けるような試みをしては、難しい局面に立たされ続けた。自ら未来を切り拓く試みを実践すれば、必ず陥る難局である。
創業後、7年目の1999年8月、日本では類似企業がなかったIIJは、ニューヨーク・ナスダックに株式を公開した。翌2000年には、レイヤー2の新たな広域イーサネットのサービスを開発した。ソニー、トヨタにも出資を仰ぎ、IIJと三社で設立したクロスウェイブコミュニケーションズ(CWC)を、同じくニューヨーク・ナスダックに上場した。卓越したコンセプトが認められて、設立後、間もない時期にコンセプショナルIPOを実現したのである。
ところが、将来の通信サービスを予見したはずのCWCは2003年、資金繰りの問題から、売上高は急速に拡大していたにもかかわらず、会社更生法の適用という事態を招いた。IIJにとって深刻極まりない状況だった。存続すら危ぶまれたIIJだったが、急速に復活した。それを可能にしたのは、IIJの社員が1人も離職せず、結束して再建に立ち向かったからである。
以後20年、IIJの業績は右肩上がりを続けている。危機を脱し、現在に至るまで成長・拡大できたのは、一人ひとりの社員がインターネットという巨大な技術革新に対する確信を共有し、新たな情報通信サービスに対する献身的な取り組みを続けてきたことによる。

世界を見回しても、IIJほど多くのネットワーク・エンジニアが育ち、的確にネットワークサービスの運用を実現している企業は見当たらない。通信量の爆発的増加、高速化が進むネットワーク社会において、信頼性の高い通信サービスを提供し続けることが、決定的に重要となっている。
IIJが過去30年にわたり信頼性を高めてきたネットワークの運用力は、今後も重要性を増すばかりである。急速な発展を続けるネットワーク社会を支えるのは、ネットワークを運用する技術力と、より高度で多様なサービスを実現する開発力である。その意味でも、IIJの将来には、限りなく大きな可能性が広がっている。
量子コンピュータの実用化、AIの発展など、情報通信の分野では過去の経験とは異なった形の技術革新が続くだろう。その一方で、これらの技術革新を支え、かつて想像すらできなかった社会を実現するのは、ネットワークサービスの信頼性である。
創業30年を迎え、IIJが担う責任はますます大きくなっている。IIJを創業して以来、今ほど将来に対し無限の可能性を感じることはない。


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