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社長対談 人となり 阪急阪神ホールディングス株式会社 代表取締役会長 グループCEO 角 和夫氏

IIJ.news Vol.172 October 2022

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。
第25回のゲストには、阪急阪神ホールディングス株式会社代表取締役会長 グループCEOの角 和夫氏をお招きしました。

阪急阪神ホールディングス株式会社

代表取締役会長 グループCEO

角 和夫氏

1949年、兵庫県宝塚市出身。灘中学校・灘高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。73年、阪急電鉄株式会社入社。流通本部流通統括室長、鉄道事業本部鉄道計画室長、取締役、常務取締役などを経て、2003年、代表取締役社長。05年、阪急ホールディングス株式会社代表取締役社長。06年、阪急阪神ホールディングス株式会社代表取締役社長。17年から現職。宝塚音楽学校理事長、公益財団法人日本棋院理事なども務める。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役社長

勝 栄二郎

弁護士だった父

勝:
本日はお忙しいなかお時間を頂戴し、ありがとうございます。さっそく幼少期のお話からうかがっていきたいのですが、早くにお父様を亡くされたそうですね。
角:
父は労働争議を専門にしていた弁護士でした。阪急電鉄の顧問もしていた父のところには、若い社員がよく書類などを届けに来ていました。その若手社員が後年、私が阪急電鉄に入社した時、人事部長になっていたのです。
勝:
そうでしたか(笑)。
角:
父は仕事柄、付き合いも多く、たいてい夜遅くまで呑んで帰ってくるので、朝、私が学校に行く時間帯はまだ寝ていて、平日に父と顔を会わすことはほとんどなかったですね。小学4年の時、父が亡くなったのですが、私は母に育てられたという印象が強く、父が他界したあとも生活自体に大きな変化はなかったというのが正直なところです。
勝:
お父様から受けられた影響などはありますか?
角:
父は休みの日、縁側で棋譜を見ながら碁を打っていました。そういう姿を見ていたこともあって、私も早稲田に入ってから碁を打つようになりました。

バンド活動に熱中した灘高時代

勝:
灘中・灘高で学ばれましたが、どのような学生生活を送られましたか?
角:
灘の校風が生徒を信用した自由なものでしたから、好き放題やらせてもらいました(笑)。
勝:
大学は早稲田に進学されました。関西から東京に出てこられて、違和感などなかったですか?
角:
ちょうど私がいた頃、灘校の東大合格者数が日本一になりました。それで仲間の多くが東京に出てきたこともあって、違和感などはなかったです。
勝:
バンド活動に熱中されたとのことですが、始められたのはいつ頃ですか?
角:
中学3年の時、神戸の三宮にあった楽器店でエレキギターを買ってもらって、夢中になりました。楽しかったですね(笑)。
ちょうどビートルズ、ベンチャーズが大流行し、日本ではグループサウンズのブームがわき起こった時代ですから、加山雄三さんは我々団塊の世代のスーパースターです。
灘校時代にバンドを組んで文化祭で演奏したりしましたが、その時のメンバーは、リードギターが東大を出て関西電力に勤め、ベースが京大から弁護士になり、ドラムスが慶應の医学部を出て医者になり、私が早稲田から阪急へ就職しました。
勝:
皆さん、すごいメンバーですね(笑)。その後、再結成などはされてないのですか?
角:
各々がバラバラの分野に進んだので、なかなか全員が集まることはできなかったですが、ベースを除いたメンバーで一度だけ同窓会を開いたことはあります。

座右の銘は「流水不争先」

勝:
囲碁は今でも打たれるのですか?
角:
そうですね。日本棋院の理事として普及にも力を入れていますし、定期的にプロと打ったりもしています。棋士の井山裕太さんが七冠を獲った2016年、井山さんに打っていただいたこともあるのですよ。もちろん勝負には負けましたが、その時に七段をいただき、井山さんの七冠の署名が入った免状を大切にしています。
勝:
囲碁の言葉でお好きなものがあるそうですね。
角:
1952年から本因坊を9連覇した高川格(たかがわ かく)先生が揮毫していた「流水不争先(りゅうすいさきをあらそわず)」という言葉です。
勝:
どういう意味ですか?
角:
「川を流れる水は先を争わない」という意味で、奇手奇策を用いることなく、自然な流れを重んじた高川先生の棋風を言い表しています。
勝:
素晴らしい言葉ですね。角さんの「人となり」にも通じるところがありますね。

阪急電鉄に就職

勝:
大学卒業後、阪急電鉄を就職先に選ばれました。
角:
実家が宝塚でしたから、小さい頃から阪急百貨店で買い物をし、宝塚歌劇にもよく連れて行ってもらったり、生まれて初めてナイフとフォークで洋食を食べたのも宝塚ホテルでした。そんなふうに小林一三(こばやし いちぞう)が築いた阪急沿線の生活圏で大きくなりましたから、阪急という会社には親近感がありました。
当時は今のように転職するような時代ではなかったので、一生勤めあげて振り返った時、後悔しない会社に入りたいと考えていました。あとは、食品なら食品、医療なら医療といった単一の業種より、阪急なら、鉄道をはじめ、文化事業や街づくりなどいろいろなことをやれそうだという期待もありました。
勝:
入社後、運転士からキャリアをスタートされたそうですね。
角:
最初に現場を経験できたのは大きかったです。管理部門からスタートしていたら、社長にはなれなかったと思います。
勝:
やはり現場は大事ですね。鉄道分野にはどれくらいいらしたのですか?
角:
1973年に入社してから20年間、鉄道でした。その後、経営政策室というところに行き、鉄道の設備投資計画や新規事業として西宮に葬儀会館をつくって葬祭業に参入したりしました。

社長として数々の改革を断行

勝:
2003年に社長に就任されて、バブル期の負債を処理すると同時に、さまざまな改革を実行されました。
角:
100年以上の歴史を誇る阪急グループの前半50年は小林一三が直接経営にあたり、常に新しいことに挑戦し続け、多くの実績を残しました。1957年に一三が死去したあとは、三男の米三が1959年に社長に就任したのですが、1969年に急逝し、それ以降はどこか求心力を欠いたグループになってしまいました。そしてバブルがはじける直前になって、不動産投資に手を出してしまった。まさに最後に残ったジョーカーを引いてしまったわけです。
私は入社以来、ずっと鉄道畑を歩んできたので、はたから見ていて、おかしなことをしているなという思いはありました。百数十円の初乗り運賃を頂戴するために、社員は朝から晩まで額に汗して働いている。それなのに、不動産投資に突っ込んでいった結果、億単位の土地の値段が大きく下落し、その後しばらくはバブルの後遺症に苦しむことになりました。情けない思いでした。
勝:
負債の処理は、強力なリーダーシップのもと、トップダウンで進められたのですか?
角:
「膿を出し切る」という決意でした。まず不採算事業から撤退し、次にやったのがホールディングス制への移行でした。
当時、阪急電鉄がホテル事業をやっているのに、新阪急ホテルという上場会社があったり、阪急電鉄でマンションを売っているのに、阪急不動産でも同じような事業を手がけていた。親会社も子会社も上場して、利益相反みたいなことをやっていたのです。
それで2005年にこうした事業持株会社(親子上場)を廃止して純粋持株会社をつくり、阪急ホールディングスの下に電鉄、交通社、ホテルといった兄弟会社が並ぶ体制に変更しました。
勝:
ホールディングス制への移行は大革命だったのではないですか?
角:
バブルの傷が深かっただけに、思い切った改革をやらざるを得なかったのです。
ちょうど同じ2005年、阪神電鉄の株価が急騰していた。一般には、阪神タイガースが優勝したことによる「タイガース景気」だと見られていたのですが、銀行などは「これは裏で(株の)買い付けが行なわれている」と警告を発していました。すると案の定、村上ファンドが阪神電鉄株を買い進めていたのです。
勝:
あの頃、阪神電鉄は赤字ではなかったですよね?
角:
阪神はバブルの時でも西梅田開発だけに専念していましたから、バランスシートはピカピカでした。それで村上ファンドに目を付けられたのです。
勝:
阪急と阪神は企業文化もまったく異なるので、(経営統合に際しては)社内にも反対意見があったのではないですか?
角:
「バブルの後始末にようやくメドがたったところなのに、なぜ?」、「村上ファンドに儲けさせるな」といった意見が大半でした。しかし個人的には、阪神と一緒になることで梅田の街づくりをはじめ、さまざまな効果を発揮できる確信がありました。少年の憧れの甲子園と、少女の憧れの宝塚を持つことができるわけですからね(笑)。ただ、ご指摘の通り、阪急と阪神では沿線カラーが違いますから、お客さまからさまざまな声があがるのではないかという心配はありました。
しかしあのまま放っておくと、村上ファンドに買われて、事業ごとにバラ売りされてしまう。ここは経営統合しかないと決断しました。たまたま直前にホールディングス制を敷いていたため、阪神の名前をそのまま残すことができたのも幸運でした。

まずは従業員満足度

勝:
角さんの経営哲学はどういったものですか?
角:
常々言っているのは、従業員満足度を上げるということです。従業員満足度が高ければ、良い商品・サービスを提供できる。それが実現できれば、顧客満足度が上がり、利益水準を保つことができ、株主に対する責任も果たせる。ですから、私は社員が仕事をしやすい環境を整えるために、可能な限り権限委譲するようにしています。ちょっと短気なところもあるので、おかしいと思うことがあれば怒ったりもしますが、最近はそれも減ってきました(笑)。
勝:
現在、阪急阪神ホールディングスは、鉄道、不動産、流通、エンターテインメントなど地域に根ざした幅広いポートフォリオを構成されていますが、今後の事業方針についてどうお考えですか?
角:
阪急阪神ホールディングスの売上高は業界第3位、営業利益はトップです。売上的に、コロナ禍前は鉄道と不動産がほぼ同じくらいで全体のベースになっていますが、鉄道に関しては利益が今の2倍、3倍になることはちょっと考えづらいので、伸びしろがあるのは不動産部門ということになります。
我々の拠点は関西ですが、万が一、自然災害などが発生した際のリスクも考慮しながら、首都圏あるいは海外に不動産を分散させ、投資も振り分けていく必要があると考えています。それで近年は、ASEANやアメリカでも事業を拡大しています。

関西の将来

勝:
角さんから見た「関西の強み」はどんなところですか?
角:
今年9月、東急が創業100周年を迎えましたが、関西では、それより37年早い1885年に南海電鉄が難波から大和川(堺市)まで蒸気鉄道を走らせました。神戸・大阪間は1905年に阪神電気鉄道が営業を開始しました。そして1910年に阪急電鉄、京阪電気鉄道が、1914年には近畿日本鉄道が開業しました。このように関西では早い時期から私鉄が多く生まれ、戦前までは、東京が「政治=官」の中心であったのに対し、「経済=民」の中心は大阪でした。
現在に目を向けると、関西国際空港と神戸空港という2つの24時間運用可能な空港があるところが関西の大きな強みです。西日本で獲れた高付加価値の農産物を海外へ輸出するのに神戸空港の立地は最高ですし、東アジアやASEANからの来日に際し、成田や羽田より1時間早くアクセスできる点は、関西のアドバンテージになり得ます。今後の課題としては、神戸空港の24時間化の早期実現と、神戸市街や新幹線の新神戸駅との南北動線を整備することです。
もう1つの関西の強みは、健康・医療産業だと思います。関西では京都大学、大阪大学、神戸大学をはじめとした学術研究機関や、産業界、行政が「関西健康・医療創生会議」に加盟しており、医療情報の活用という点では、関東に比べてまとまった組織があります。目下、「次世代医療基盤法」(2018年施行)にもとづいて、医療情報のビッグデータ活用が進められていますが、まだまだ道半ばなので、関西がそうした流れを主導していけるよう環境整備を進めていきたいです。
勝:
2025年には国際万国博覧会(万博)が大阪で開かれます。推進担当として角さんは、どのような提言をなさりますか?
角:
大切なのは、万博の開催期間中だけでなく、未来に何を残せるかということです。1970年の大阪万博では「千里ニュータウン」という新しい街をつくることができました。今度の万博の会場となる夢洲では「未来社会の実験場」というコンセプトを掲げています。ここを舞台に大阪のレガシーになるような街づくりを進めていくべきだと考えています。

倫理観の再確認を

勝:
これから日本はどのような方向に進むべきだとお考えですか?
角:
私は、もう一度、日本が世界から尊敬される国になってほしい。そのためには、社会保障改革を進めるうえでも、財源を確保する必要があり、消費税の増税を含む歳入改革と、プライマリーバランスの黒字化という旗印は絶対に下ろしてはいけないと思います。そうでないと、日本の国際的な信用も競争力も下がる一方です。
勝:
最後に、将来の日本を担う若い世代にメッセージをいただけますか。
角:
戦後教育のなかで失われたものが2つあり、その1つが自分の国は自分で守るという信念で、もう1つが倫理観だと思います。昨今の社会情勢を見るにつけ、経営者の倫理観が欠如していると言わざるを得ない。
私は年に1回、大阪大学と早稲田大学で学生に講義するのですが、財政規律と企業倫理については必ず話をします。特に宗教的な基盤がない日本では倫理に関する教育は不可欠で、学生も真剣に聞いてくれますし、積極的な質問も出てきます。このような時代だからこそ、「恥ずかしいことをしてはいけない」という基本的な倫理観を再確認してほしいです。
勝:
本日はたいへん示唆に富んだお話をうかがうことができました。ありがとうございました。


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